東京工芸大学
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工芸ヒストリー06
工芸ヒストリーメインビジュアル

創立に集った教育者たち(前編)

初代校長 結城林蔵

 明治から大正にかけて、写真と印刷という新しいメディアの産業を興し、社会の発展と文化の振興に身を投じた六代杉浦六右衞門が他界した後、その遺志を引き継いだ七代杉浦六右衞門*1によって本学は創立された。杉浦家の多大なる庇護の下に、本学は産声を上げたのである。本稿では、その創立時に集った教育者たちについて二話にわたって記しておきたい。

小西寫眞専門学校創立時の教育陣

 1923(大正12)年、小西寫眞専門学校の創立時の主な教員と担当科目は以下のとおりである。
教授:
結城林蔵(校長)「色彩学」「製版術」「美術工芸史」「写真工芸」
加藤精一(商学士)「写真光学」
秋山轍輔(写真月報・東京写真研究会主幹)「写真学通論」
小野隆太郎(写真師)「採光」
春日定夫*2(六桜社技師)「実習」
杉浦誠次郎(工学士/六桜社工場長)「光化学」
長岡菊三郎(理学士/六桜社技師)「化学」
講師:
江頭春樹(六桜社技師長)「材料・薬品」
壇上新吉*3(写真師)「修正」
前川謙三(写真師)「修正」
宮内幸太郎(写真師)「印画」

この他に、「物理学」「化学実験」「法制」「経済」「修身」「図画」「図案」「英語」「衛生」「体操」などの科目があった。

開校式に集まった教職員 1923(大正12)年4月20日
前列左から5人目が初代校長の結城林蔵、6人目が財団法人設立者の七代杉浦六右衞門

初代校長を務めた結城林蔵

 初代校長の結城林蔵は、第2話でも記したとおり、東京高等工業学校、東京美術学校でも教鞭を執った印刷製版術の権威である。
 結城は、1866(慶応2)年に越後の南魚沼郡六日町村(現在の新潟県南魚沼市六日町)に生まれ、旧姓を久保田といった。

結城林蔵

 実家は呉服から食料品まで扱うような六萬屋という個人商店だった。商人に学問は不要という父の考えから、林蔵が小学校を卒業するとすぐに、実家から少し離れた小千谷にある呉服店に丁稚に出された。丁稚奉公を嫌った林蔵が、たびたび仮病を使っては実家に戻ってきたため、次には実家からさらに離れた長岡の薬屋に丁稚に出された。
 薬屋で林蔵は薬というものに興味をもったようだが、やはり丁稚奉公は性に合わず、同じ長岡で染物屋を営む祖父のところに居候するようになる。この時に、祖父が染め物の下絵を描くのを見て、林蔵も絵を描くことに興味をもつようになる。
 やがて近くに農学校*4ができることを知ると、人一倍向学心が旺盛だった林蔵は、親には内緒で農学校を受験して見事合格する。だが、農学校への入学は親に猛反対されたため、林蔵は県から学費を借りて農学校へ入学した。1884(明治17)年春のことである。

 1887(明治20)年に農学校を卒業後、高等小学校教師の職を得て、しばらくは農学を教えていた。しかし、新聞で東京美術学校が設立されるという記事を読むと、絵画に興味を持っていた林蔵は入学を目指して、1888(明治21)年に上京する。

 東京美術学校はまだ開校しておらず、上京しても何の情報も得られなかったため、林蔵は文部大臣の森有禮(もりありのり、1847 - 1889)を訪ねる。森がまだ文部省御用係だった時代に、林蔵の通っていた農学校を視察に訪れたことがあった。その時に農学校の生徒で最年少だった林蔵が森の給仕役を命じられ、大臣とは面識があったのである。
 いきなり文部省を訪ね、大臣への面会を申し入れたため門前払いにあいそうになるが、紙に氏名と長岡の農学校出身というメモを森に渡してもらい、やっとのことで面会を許された。林蔵のことをすぐに思い出し、一度は「農学と美術に何の関係があるか!」と怒鳴りつけた森だったが、林蔵の熱意に折れ、東京美術学校の校長就任が内定していた濱尾新(はまおあらた、1849- 1925)*5に紹介状を書いてくれた。
 早速、濱尾邸を訪ねた林蔵に濱尾は驚いたが、文部大臣の紹介状を所持していた林蔵に丁重に対応したようだ。東京美術学校は翌年に開校される予定で、既に教官になることが決まっていた日本画家の橋本雅邦(はしもとがほう、1835-1908)を紹介してくれた。林蔵は東京美術学校への入学に備えて、雅邦の下で絵の修行をすることにしたのである。

 ところが東京美術学校が開校する1889(明治22)年2月には、当初希望していた東京美術学校ではなく、高給を期待して参謀本部陸地測量部(現在の国土地理院、第5話 *4参照)の採用試験を受け、200倍近い高倍率を突破して入職してしまった。採用試験では、農学校で学んだ測量の知識や、地図を描く実技試験では日本画の修行で身に付けた筆さばきが役立ったという。

 官吏といえば当時は世間一般の憧れの職業で、林蔵は意気揚々と陸地測量部に入職したが、給料は期待したほどではなかった。林蔵は大いに失望したが、ここで各種の印刷や写真の技術を研究することになる。1891(明治24)年には、東京府士族の結城家に入婿して結城姓となった。
 1900(明治33)年に、陸地測量部を辞した後、校長の手島精一(てじませいいち、1850-1918)の誘いで、東京工業学校(1901年に東京高等工業学校へ改称)の嘱託講師となる。手島は、印刷術はあらゆる工業に関係し応用されるべきものと考えており、ちょうど印刷術の教員を求めていたのである。着任後はすぐに正式な助教授となり、印刷技術を学ぶため、1902(明治35)年11月より文部省留学生としてドイツ、オーストリアへ留学する。
 ドイツに渡った林蔵は、ライプツィヒ美術学校(現在のライプツィヒ版画製本芸術大学、Hochschule für Grafik und Buchkunst Leipzig)で網目版印刷や三色版印刷などを学んだ。1904 (明治37)年にはオーストリアに居を移し、ウィーン写真及び製版学校(現在のウィーン応用美術大学、Universität für angewandte Kunst Wien)で散粉式写真凹版印刷などを学ぶ。
 1905 (明治38) 年3月に帰国した後、林蔵は東京高等工業学校の教授となる。1914(大正3)年、文部省令で東京高等工業学校の印刷製版の教育課程は東京美術学校へ移管され、林蔵も東京美術学校に移籍したことは第2話のとおりである。

 1923(大正12)年4月、結城林蔵は小西寫眞専門学校の初代校長として就任するとともに、教授として「製版術」、「色彩学」、「美術工芸史」、「写真工芸」などの授業を担当した。当時の学生たちの証言によれば、校長といっても学生たちとの距離が近く、とても親しみやすい存在だったという。

 結城は、印刷製版や写真の研究者として『写真月報』などで最新の技術解説や報告を数多く発表した。一方で1914(大正3)年からは東京写真研究会の審査員を務めるなど、芸術写真などへの造詣も深く、まさに工芸融合を推進する本学の初代校長としてこの上ない人物だったといえよう。


後編につづく。

註:

*1  七代杉浦六右衞門(すぎうらろくえもん、1879-1942)
六代杉浦六右衞門(初名は六三郎、隠居名は甚兵衛)の長男。初名は甚太郎。明治議会尋常中学校、欧文正鵠学館で学んだ後、海外の写真業界を視察した。1921(大正10)年9月に七代杉浦六右衞門を襲名。同年10月に合資会社小西六本店を設立し、社長となる。1936(昭和11)年に株式会社へ改組。1941(昭和16)年に会長就任。

*2 春日定夫(かすがさだお、1856-1926)
長野県生まれ。1877(明治10)年に上京し、工部省技芸学校で学んだ。1887(明治20)年、鈴木真一(すずきしんいち、1835-1918)の写真館に弟子入りして写真を学ぶ。日清戦争では戦地を撮影。1903(明治36)年に六桜社の技師となる。学生監(現在なら学生部長)としてよく学生の面倒を見ていたが、1926(大正15)年5月、講義中に倒れ帰らぬ人となる。

*3 壇上新吉(だんじょうしんきち、生没年不詳)
二代目鈴木真一こと岡本圭三(おかもとけいぞう、1859-1912)が亡くなった後、東京九段の写真館を引き継ぐ。1920(大正9)年、健康を害し、写真館を野島康三(のじま やすぞう、1889-1964)に譲渡する。その後写真館は野々宮写真館として営業され、支配人は壇上の親友であった山崎静村(やまざきせいそん、1886-1971)。

*4 1884(明治17)年に結城林蔵(当時は久保田林蔵)が入学した農学校は、同年4月に長岡町に移転してきた新潟勧農場という県営の農業試験所兼教育機関であり、1885(明治18年)には新潟県農学校と改称された。現在の新潟県農業総合研究所。

*5 濱尾新は東京美術学校創立に際には校長事務取扱に留まり、実質的には初代校長は岡倉天心(おかくらてんしん、本名は覚三、1863 - 1913)となった。

参考文献:
・「結城林蔵先生自伝」印刷雑誌社『印刷雑誌』、1940年5,6,7,8,9,11月号
・『日本写真界の物故功労者顕彰録』日本写真協会、1952年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・ 伊藤稔明「明治期における小学校理科の誕生と実業教育施策」科研費研究成果報告書、2014年
・ 新潟県年表「明治元年−10年」「明治11年−20年」新潟県立図書館編

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