東京工芸大学
東京工芸大学
  • Facebook
  • Instagram
  • YouTube
工芸ヒストリー15

東京写真大学の誕生、工学部を設置

4年制大学に改組、相次ぐ学科の新設

 1947(昭和22)年に教育基本法が公布され、戦後の新しく生まれ変わった教育制度の下で、本学は旧制の修業年限3年の専門学校から新制の4年制単科大学に改組することを計画していた。しかし、当時の施設やその他の実情に鑑み、まず2年制の東京写真短期大学として1950(昭和25)年に再出発をしたのは第12話のとおりである。そこには戦後の復興期にあって、専門的な知識と技術を身に付けた即戦力となる人材を短期で養成し、社会に輩出していこうという狙いもあっただろう。

高度経済成長を背景として

 1960(昭和35)年に池田勇人内閣が掲げた所得倍増計画以降、日本の高度経済成長はめざましいものがあった。特に写真産業においては、小西六写真工業や富士写真フイルムの国産の感光材料は世界に通用するまで品質が向上し、世界最大の写真企業であった米国のイーストマン・コダック(Eastman Kodak Company)に引けをとらない実力を持つようになっていた。
 また1950年代まで圧倒的な技術力で優位にあったライカ(Leica)やコンタックス(Contax)といったドイツ製のカメラに対して、ニコンやアサヒペンタックスに代表される国産の高機能な一眼レフカメラが登場し、日本のカメラ製品は次第に世界の市場を席巻するようになり、1960年代になると写真産業は日本の輸出を担う重要な産業へと成長していた。
 
 このような日本の写真産業の急速な発展を背景に、写真に携わる人材の需要が増大した。特に写真工業に関わる教育には、より高度な知識と技術の修得が要求されるようになった。

 一方で、高度経済成長により所得水準が上昇したことから、大学や高等専門学校などの高等教育への国民の進学希望は高まっていった。1954(昭和29)年に7.9%(男性13.3%、女性2.4%)だった4年制大学の進学率は年々上昇を続け、10年後の1964(昭和39)年には15.5%(男性25.6%、女性5.1%)にまで高まっていたのである。大学への進学希望の上昇にともない大学・短期大学の数も増加し、東京写真短期大学が誕生した1950(昭和25)年には全国で149短期大学、201大学だったものが、1964(昭和39)年には、それぞれ339短期大学、291大学にまでなっていた。

 こうした状況もあり、本学にとって宿願でもあった4年制大学設置を実現しようという機運が高まり、1960(昭和35)年には4年制大学を設置する具体的な検討が始められた。

 必要となる校地として、現在の厚木キャンパスがある神奈川県厚木市飯山の約5万平方メートルの土地を1964(昭和39)年2月に取得し、4年制大学設置の準備は着々と整えられていったのである*1。

空から見た厚木キャンパス建設予定地周辺、1964年

4年制大学新設を申請

 1964(昭和39)年1月24日の理事会において「今日の驚異的な科学技術の躍進と時代の要求により、前々より懸案の4年制大学を現在の短期大学と併設したい」と当時の春木榮(はるきさかえ、1899-2000)*2理事長が提案し、1年後の1965(昭和40)年4月に4年制大学を開設することが承認された。

春木榮理事長

 その後、同年6月1日の理事会で、4年制大学は工学部として、高度化する写真・印刷産業を支える人材の養成を目的とする「写真工学科」と「写真印刷科」(各学科入学定員45名)の2学科を設置し、4学年の総定員数を360名とすることが承認された。

 ところが、その内容での認可申請は文部省(現在の文部科学省)に却下されてしまう。写真工学科と写真印刷科という、写真のみに特化した2学科構成での工学部設置に文部省が難色を示したのだ。
 再申請に向けて特別委員会が設置され、設置学部及び学科の再検討と、必要となる運営資金や施設などについて議論され、1965(昭和40)年6月17日に開催された理事会において、設置学部は工学部のまま、「写真工学科」と「印刷工学科」の2学科と名称を変更し、各学科の入学定員50名、4学年の総定員400名に増やして、1966(昭和41)年4月の開学を目指して再度認可申請することとした。

 同年9月末に提出された申請は、文部省の大学設置審議会と私立大学審議会での議論を経て、同年12月18日、無事に認可された。こうして本学の関係者にとって念願であった「東京写真大学」は誕生したのである。

 これにともない、1966(昭和41)年1月に学校法人東京写真短期大学の名称を「学校法人東京写真大学」に変更し、中野キャンパスの東京写真短期大学は「東京写真大学短期大学部」に改称されることになる。
 同年4月に開学した東京写真大学は、工学部と短期大学部の2学部に分かれ、4年制の工学部の下には写真工学科と印刷工学科の2学科、2年制の短期大学部の下には写真技術科と写真工業科、写真印刷科の3科が設置されることになった*3。

東京写真大学工学部、厚木キャンパス、1966年

東京写真大学の第1回入学式を挙行

 1966(昭和41)年4月18日、東京写真大学工学部の第1回入学式が挙行された。入学者は写真工学科133名、印刷工学科77名の合計210名であった。

 東京写真短期大学に続き、東京写真大学の初代学長となった鎌田弥寿治は「写真と印刷は近年めざましい発展を遂げ、特に情報伝達のメディアとして優れた機能を発揮しているばかりでなく、あらゆる分野においても、なくてはならないものになっている。工学部では、応用物理および工業化学を基調とし、特に写真と印刷に力点を置いて、広くかつ清新な学理を教授、研究し、高度の技術を修得させること」と表明している。

 東京写真大学が開学した1966(昭和41)年10月、初代学長の鎌田弥寿治は高齢のため惜しまれつつ学長の座を退任し、替わって山田幸五郎(やまだこうごろう、1889 -1982)教授が二代目学長に就任した*4。

東京写真大学 二代学長 山田幸五郎

 工学部が開学した厚木キャンパスは、丹沢山系を望み、四季の移り変わりを肌で感じることのできる豊かな自然に囲まれた環境にあり、このキャンパスで学生たちは勉学に加えて課外活動にも打ち込み、写真、音楽、新聞、テニス、サッカー、空手、山岳、スキーなどのクラブが相次いで設立された。

東京写真大学学友会スキー部、1970年

相次ぐ新学科の設立

 昭和30年代からの急速な経済成長で日本は世界第2位の経済大国に躍進した一方で、当時は「公害」と呼ばれた様々な環境問題に直面していた。こうした中、本学は工学部の写真化学分野を独立させて「工業化学科」(入学定員50名)を設置し、1973(昭和48年)年4月に同学科の新入生を迎えた。
 1974(昭和49年)年度の入学案内では、同科の設置について「公害問題も、製造工程の設計変更によって、来たるべき”無公害生産時代”を迎えることは可能な事実であり、工業化学分野の、これから取組まなければならない、研究開発の不可避的な要望課題でもある」として、次世代の社会を担う工業技術者の養成が目的であることを説明している。

 また、高度成長期から続く建築ブームで、大都市での超高層ビルの建設や大規模工事、建設業の海外進出などで、建設業界では技能労働者・建設技術者の不足に悩まされていた。
 こうした課題の解決に向けて、本学は建築学科(入学定員50名)の設置を1974(昭和49年)年に文部省から認可され、同年4月に第1期の入学生131名を迎えた。テクノロジーとアートの融合体として複雑な要素を持つ建築の創造に必要な知識と技術を修得した、有能な建築技術者を育て、増大する社会の需要に大学として応えることにしたのである。

建築学科授業風景、1974年頃

 1976(昭和51年)年、急速なカメラの電子化に対応すべく「電子工学科」(入学定員50名)を新設した。当時、機械工学の進展によりデジタル社会のとば口にいた日本は、最先端技術となる電子工学の技術者を必要としており、本学は、現在においては全ての産業の根幹となっているエレクトロニクス技術者の養成にいち早く取り組んだのである。

 1976(昭和51年)年には、印刷工学科を、紙媒体に囚われず広く画像情報を扱う学科として「画像工学科」に改称し、工学部は写真工学科、工業化学科、建築学科、電子工学科、画像工学科の5学科となった。

 1923(大正12)年に創立した本学の建学の精神は「時勢の必要に応ずべき写真術の実技家及び研究家を養成し併せて一般社会における写真術の向上発達を図る」というものであった。これまで述べてきたように、本学は建学の精神を継承しながら、真の創造力を持つ人材を養うために、常に変化する時代や社会の要請に応じて迅速に組織を改革し、最先端の研究と教育を導入して大きく発展してきたのである。

東京写真大学開学当時の厚木キャンパス、1966年

註:
*1 現在の厚木キャンパスは、西キャンパスとグラウンドを加えて19万平方メートルの広大な敷地で、風に関する世界的な研究拠点である「風工学研究センター」や、色に関する工学部と芸術学部の共同研究の成果などを公開する「色の国際科学芸術研究センター・カラボギャラリー(col.lab Gallery)」など特色ある施設を擁している。

*2 春木榮
島根県生まれ。1923(大正12)年、京都帝国大学卒業後、大日本セルロイド株式会社に入社、1934(昭和9)年、富士写真フイルムの創立にともない同社に移籍、1943(昭和18)年、社長に就任。1955(昭和30)年、日本写真協会会長に就任。1960(昭和35年)、富士写真フイルム社長を退任して取締役会長に就任。1962(昭和37)年、東京写真大学理事長に就任、1974(昭和49)年まで理事長を務めた。

*3 短期大学部の写真工業科は、写真化学や写真光学を研究・教育していたが、工学部の写真工学科の設置にともない内容が重複することから、1967(昭和42)年には写真の産業への応用として映画やテレビについて学ぶ「写真応用科」に改称した。また写真印刷科についても、紙媒体にとらわれず広く画像情報を扱うため、1976(昭和51)年に「画像技術科」に改称した。この写真技術科、写真応用科、画像技術科の3科体制は、1994(平成6)年に設置された芸術学部の「写真学科」「映像学科」「デザイン学科」という3学科に受け継がれることになる。

*4 山田幸五郎
青森県生まれ。1922(大正11)年、東京帝国大学大学院にて理学博士の学位を取得。戦前は帝国海軍艦政本部に在籍し、写真兵器の設計や生産に従事し、六桜社とも深いつながりがあった。家内工業的だったカメラの生産を近代的な製造業へと移行を指導した、カメラ工業化の父ともいうべき人物で、幾何光学の権威としても知られていた。1966(昭和41)年から1970(昭和45)年まで東京写真大学学長を務めた。

参考文献:
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『昭和写真小史』東京写真大学・同窓会 五十周年記念出版委員会編 、1977年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・東京都写真美術館叢書『日本写真史への証言(下巻)』亀井武編、淡交社、1997年
・文部科学省「文部統計要覧 昭和31~41,42~平成13年版」
・総務省統計局 e-Stat「学校基本調査」

前の記事
次の記事
工芸ヒストリートップに戻る