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工芸ヒストリー01
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写真の渡来

世界初の実用的な写真術、幕末の日本へ

公開日:2021/10/5

 1839年8月19日、パリで開催されたフランスの科学アカデミーと芸術アカデミーの合同会議において、世界初の実用的な写真術である「ダゲレオタイプ」(Daguerréotype)*1が発表された。

フランスの科学・芸術アカデミー合同会議での「ダゲレオタイプ」の発表
1839年8月19日、
フランスの科学・芸術アカデミー合同会議での「ダゲレオタイプ」の発表
Archive Farms Inc / Alamy Stock Photo

 発明者のルイ=ジャック=マンデ・ダゲール(Louis-Jacques-Mandé Daguerre, 1787-1851)の名前から名付けられたダゲレオタイプは、銀板(もしくは銀メッキを施した銅板)に画像を定着させる写真法である。その先鋭な画像は、まさに「記憶を持った鏡」とでもいうべき精緻な描写であった。発表当日は多くの聴衆が会場に詰めかけ、驚きを持ってこの発明を受け入れた。

 この世界で最初に普及した写真術が、科学アカデミーと芸術アカデミーとの合同会議で公表されたことは、その後の写真の発展を考える上で大変意義深い。フランス政府がダゲールからこの発明を買い取って一般に公開したことで、ダゲレオタイプは驚異的なスピードで世界中に広まっていった。1839年の終わり頃には、ダゲレオタイプの撮影方法などを記した解説書は、40もの言語に翻訳されていたという。

 暗い部屋に小さな穴を通して差し込んだ光が、部屋の反対側の壁に外の像を映し出す原理は紀元前から知られていた。遠近法が発達するルネサンス期以降は、この原理を応用した絵を描くための道具として、現在のカメラの原型となる装置(カメラオブスクラ/Camera Obscura)が存在していた。19世紀には、この装置で映し出された画像を定着しようと多くの研究者が研究を重ね、ようやく実用化に至った写真術の一つがダゲレオタイプである。

ダゲレオタイプによる肖像写真、撮影者不詳、19世紀中頃
ダゲレオタイプによる肖像写真、撮影者不詳、19世紀中頃
東京工芸大学 写大ギャラリー所蔵

 ダゲレオタイプは銀板そのものに画像を定着させるため、一回に撮影できるのは一点だけで、焼き増しなどの複製はできなかった。これに対して、1841年にイギリス人の科学者ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot, 1800-77)が特許を取得した「カロタイプ」(Calotype)*2は、一回の撮影で得たネガ画像を印画紙に重ね合わせて感光する世界初のネガ・ポジ法である。一枚のネガ画像から、複数のポジ画像(プリント)が得られるカロタイプは、画像情報を伝達するという写真のメディアとしての可能性を飛躍的に高めた発明といえるだろう。

カロタイプのネガ(左)とポジ(右)、ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット、1940年代
カロタイプのネガ(左)とポジ(右)、
ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット、1840年代
東京工芸大学 写大ギャラリー所蔵

 また、金属板であるダゲレオタイプに対して、紙にプリントするカロタイプは、その形態においても写真の利便性を大きく広げるものだった。タルボットは1844年から1846年にかけて、カロタイプのプリントを貼り込んだ世界で初めての写真集『自然の鉛筆』(The Pencil of Nature)を出版し、写真の科学的な実用性と芸術的な可能性を示していた。

写真術の日本への渡来

 写真術が日本へ渡来したのは江戸幕末期のことである。当時、鎖国政策を取っていた徳川幕府は、長崎・出島を唯一の窓口としてオランダや中国と交易を続け、写真術のような海外の新しい情報は長崎から入ってきた。

 1848(嘉永元)年、長崎の御用商人で貿易商である上野俊之丞(うえのとしのじょう, 1790-1851)が、初めてのダゲレオタイプの撮影道具一式を輸入した。この撮影道具一式は、後に十一代薩摩藩主となる島津斉彬(しまづなりあきら, 1809-58)が入手し、自ら藩の学者らを主導して、江戸と鹿児島で研究した。ダゲレオタイプは「銀板写真」と呼ばれ、薩摩藩をはじめとする諸藩で研究が続けられたが、実用には至らなかった。1857(安政4)年9月17日に、市来四郎(いちきしろう, 1829-1903)らの薩摩藩士たちが撮影したとされる「島津斉彬像」のみが、当時国内で日本人によって撮影に成功したダゲレオタイプとして唯一現存している。

「島津斉彬像」市来四郎 他、1857年(重要文化財)
「島津斉彬像」市来四郎 他、1857年(重要文化財)
尚古集成館所蔵

 安政年間(1854-1860)初期には、ダゲレオタイプより簡便な写真術である「
コロディオン湿板法」(Wet Collodion Process)*3が日本にも伝搬している。1862(文久2)年には、上野俊之丞の子である上野彦馬(うえのひこま, 1838-1904)が、コロディオン湿板法を身に付け、長崎で営業写真館を開業した*4。同時期に、江戸では鵜飼玉川(うかいぎょくせん, 1807-1887)が、横浜では下岡蓮杖(しもおかれんじょう, 1823-1914)が営業写真館を開業している。

 大政奉還により徳川幕府が倒れて明治期(1868-1912)になると、日本各地に営業写真館が続々と開業して写真は急速に普及していった。初期の営業写真館における職業写真師たちの多くは、写真技術書から独学で学んだり、外国人から写真術を習得したりしていた。明治中期以降になると、写真に関する解説書が多く発刊されていたが、営業写真館では師弟関係による写真術の伝授が一般的だった。

 写真技術が急速に発達し、写真の需要の高まりとともに、技術書による独学や師弟制による伝授では、新しい技術の習得には限界が出てきた。そのため明治後期から大正初期にかけて、高度な写真教育の必要性が議論されるようになっていくのである。

註:
・技法解説
*1 ダゲレオタイプ Daguerréotype
当時パリの天文台長で下院議員でもあったドミニク・フランソワ・ジャン・アラゴ(Dominique François Jean Arago, 1786-1853)の働きかけで、ダゲールの発明をフランス政府が買い上げ、一般に公表された。銀板もしくは厚く銀メッキを施した銅板の表面を磨き、これにヨウ素の蒸気をあてて感光性を与え、カメラに入れて撮影する。水銀の蒸気をあてて現像すると、銀板の表面に白灰色のアマルガムの画像が形成される。これを飽和食塩溶液(後にハイポ)で画像を定着する。

*2 カロタイプ Calotype
後に一般的になる写真システムの基本となるネガ/ポジ方式による世界初の写真技法。銀の化合物を染みこませて感光性を与えた紙をカメラに装着して撮影をした後、現像と定着をしてネガを作る。この紙のネガには、乾燥後に透過性を高めるためロウを染みこませる処理を施す。このネガと感光性を与えた紙を密着させて太陽光で焼きつけるとポジ画像のプリントが得られる。タルボットは、美しいことを表すギリシャ語「カロス」にちなんでカロタイプと命名した。カロタイプは幕末の日本でも研究され、撮影に成功した例は確認されているが、実用化には至らなかった。

*3 コロディオン湿板 Wet Collodion Process
イギリスの彫刻家、フレデリック・スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer, 1813-57)によって1851年に発明されたガラス板を支持体とする写真技法。撮影のたびにガラス板に感光剤を塗布し、それが乾かないうちに撮影して現像する。この技法は、乾燥するにしたがい感度が急速に低下するため、撮影場所に全ての薬品や機材を揃え、短時間で撮影しなければならなかった。ネガを得るための技法であったが、画像が白灰色のため、ガラス板の下に黒い布を敷いたり、裏に黒いニスを塗ったりしてポジとして見せる方法「アンブロタイプ」が考案された。日本では桐箱に入れて鑑賞され、「ガラス写し」あるいは「ガラス生撮写真」などと呼ばれた。

*4 古川俊平(ふるかわしゅんぺい、1834-1904)
当時、長崎で上野彦馬らとともに写真術の研究に関わっていた研究者に古川俊平がいる。福岡(筑前)藩士として薬学を学んでいたが、藩主の命により長崎へ派遣され、1856(安政3)年から写真術の研究に携わった。廃藩置県後、1875(明治8)年に博多東中洲に写真館を開業した。東京美術学校写真科の最後の卒業生で、後に本学教授となる古川成俊(ふるかわなるとし、1900-1996)の祖父にあたる。

参考文献:
・Beaumont Newhall "The History of Photography" The Museum of Modern Art, New York, 1949/1988年
・ナオミ・ローゼンブラム(飯沢耕太郎 日本語版監修)『写真の歴史』美術出版社、1998年
・日本写真家協会『日本写真史 : 1840-1945』平凡社、1971年
・小沢健志『日本の写真史』ニッコールクラブ、1986年
・『写真の黎明』東京都写真美術館、1992年

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