東京工芸大学
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工芸ヒストリー02
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写真教育のはじまり

より高度な写真教育の必要性が高まった明治時代

 明治期(1868-1912)初期において、営業写真館は文明開化の象徴的な存在だった。初期の写真師たちはオランダ語や英語など語学に通じ、理化学の造詣が深く、最先端の機器を駆使する花形職業だった。

 しかし、全国で営業写真館の数が増えたことに加えて、急速な写真技術の進歩や社会環境の変化の中で、旧来の師弟制による技術の伝授では、後進の養成が追いつかず、業界の維持発展が危惧されるまでになった。そのため明治後期から大正(1912 -1926)初期にかけて、新しい写真技術を系統的に習得させて後継者を育成する、より高度な写真教育の必要性が叫ばれるようになった。

 日本の近代的な教育制度は明治の文明開化とともに始まった。1886(明治19)年には教育法令が制定され、以後高等教育が整備されていく。1901(明治34)年には、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所の工業図案科で、写真教育が始まった。

 それ以前にも、例えば陸軍士官学校などで写真と石版印刷の教育が行われた例はあるが、近代的な学校制度で正規の教育課程に、実技をともなう写真教育が取り入れられたのはこれが最初のことである*1。当時の写真教育は、印刷製版術の教育課程の一部にとどまったが、後に本学の初代校長となる結城林蔵(ゆうきりんぞう, 1866-1945)が、東京高等工業学校の教授として印刷製版術の教鞭を執っていた。

結城林蔵1923(大正12)年頃
結城林蔵1923(大正12)年頃

 1909(明治42)年に東京写真師組合の組長に選出された小川一真*2(おがわかずまさ, 1860-1929)は、1912(明治45)年2月5日付で、文部大臣に宛てて東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)に写真科設置を請願する上申書を提出している。後継者の養成に危機感を持っていた写真師たちにとって、官立機関で教育課程が設けられれば、写真業が社会に認められたことになると考えたのだ。

小川一真 1913(大正2)年
小川一真 1913(大正2)年
『創業紀念参十年誌』小川同窓会、1913年より

 当時の東京美術学校には、ドイツで工芸化学を学んだ大築千里教授(おおつきちり, 1873-1914)が、写場や暗室などを含む写真研究の設備を整備していた。1910(明治43)年に京都帝国大学に赴任した大築教授の後任として、戦後、本学が東京写真短期大学として生まれ変わった時に初代学長となる鎌田弥寿治(かまだやすじ, 1883-1977)が、東京美術学校の教授に着任する。

 1914(大正3)年、文部省令で東京高等工業学校の印刷製版の教育課程が東京美術学校へ移管されることになり、それにともない結城林蔵などの教授陣も移籍した。

 写真業界からの請願に対して、文部省は当初、予算不足を理由に写真科の設置に難色を示していた。しかし、小川一真らが中心となって多額の寄付金を集めたことなどによって、1915(大正4)年、鎌田弥寿治を主任教授として、東京美術学校に臨時写真科を新設することになった*3。
 この時に多額の寄付をした人物の一人が、本学の前身である小西寫眞専門学校の設立を唱えた写真器材商の六代杉浦六右衞門(すぎうらろくえもん, 1847-1921)だった。

 1919(大正8)年頃には、東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)の新設が内定しており、絵画や彫刻とは異なり、専門の芸術ではないと考えられていた写真教育は、東京高等工芸学校への移管が計画された。

 東京美術学校臨時写真科は1923(大正12)年に写真科へ改称されたが、1926(大正15)年には、芝浦に新設された東京高等工芸学校に移管され、わずか6回の卒業生を送り出すのみで廃止された。

 当時、写真教育の重要性は認識されていたが、技術的な側面と芸術的な側面を併せ持つ新しいメディアだった写真は、官立の高等教育機関では落ち着き場所が定まらなかった。

 そして次々と教育課程が移管されていく中で、1923(大正12)年に東京工芸大学の前身である小西寫眞専門学校が、日本で最初の写真専門の高等教育機関として、民間の手で設立されるのである。

註:
*1 高等教育機関における写真化学の教育については、1908(明治41)年、東京帝国大学の応用化学科内で、「応用光線化学」という講座において写真化学に関する講義が始められた。また1909(明治42)年には、京都帝国大学の工業化学科内で、後に東京美術学校へ移る大築千里によって写真化学の講義が始められている。

*2 小川一真 (おがわかずまさ、1860~1929年)
幕末期の武州行田(現在の埼玉県行田市)に生まれる。1877(明治10)年に群馬県富岡で写真撮影業を始める。1882(明治15)年、アメリカの軍艦に乗り込んでボストンに渡り、コロタイプ印刷や乾板製造などの最新技術を学び、1884年(明治17)3月に帰国。翌年、飯田町(現在の飯田橋)に営業写真館「玉潤館」を開設。コロタイプ印刷業も手掛け、1889年(明治22)に創刊された美術雑誌『国華』の図版を制作する。1894(明治27)年からは網目版印刷業も開始。日清戦争や日露戦争に関する写真帖の制作など、明治政府からの業務を数多く請け負い名声を得る。1910(明治34)年には写真師として初の帝室技芸員を拝命した。旧千円紙幣に使われていた夏目漱石の肖像を撮影したことでも知られる。

*3 東京美術学校に写真科を設置することについて予算不足を理由に難色を示していた文部省に対して、写真業界から、写真科新設に必要な機材・材料の提供、向こう3年間の講師の無償派遣、運営経費として3年分6000円(年2000円)の寄付などの支援が行われることになり、これによって1915(大正4)年に臨時写真科として設置が認可された。この時、六代杉浦六右衞門は1000円を寄付している。

参考文献:
・『東京高等工業学校二十五年史』東京高等工業学校、1906年
・鎌田弥寿治『日本写真教育史』東京写真大学短期大学部出版部、1975年
・亀井武『日本写真史への証言〈上巻〉』 淡交社(東京都写真美術館叢書)、1997年
・菊池真一「日本における写真教育」日本写真学会誌、1974年 第37巻・第2号
・武野谷茂夫「幕末明治の写真教育と戦前の写真の学校」日本写真文化協会『写真文化』、1990年1月号〜12月号
・原京一、田村寛、加藤春生、久保走一「わが国における初期写真教育の系譜」日本写真芸術学会誌、1995年 第4巻・1号

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