東京工芸大学
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工芸ヒストリー03
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小西寫眞専門学校の創立、建学の精神(前編)

写真技術や写真文化の普及・啓蒙が進む

 本学の前身である小西寫眞専門学校は、1923(大正12)年に東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷(現在の渋谷区本町)の地に創立した。写真器材商であった小西本店(現在のコニカミノルタ株式会社)の創業者である六代杉浦六右衞門は、時代の要請に応じた写真の技術者や研究者を養成するとともに、社会における写真の普及や発展のため、高度な写真専門の教育機関を設立することを理想としていた。1921(大正10)年に六代杉浦六右衞門が他界した後、事業を引き継いだ七代杉浦六右衞門(1879-1942)は、先代の遺志を実現するために、私財を投じて旧制の専門学校として小西寫眞専門学校を創立した。

晩年の六代杉浦六右衞門
晩年の六代杉浦六右衞門

 初代校長は、東京高等工業学校から移籍し、東京美術学校臨時写真科でも教鞭を執っていた印刷製版術の権威である結城林蔵。理事長は、当時の芸術写真を牽引していた写真家団体「東京写真研究会」の主要メンバーであった写真研究者の加藤精一(かとうせいいち、1882-1950)である。このように小西寫眞専門学校は、当時の産業界、学術界、芸術界の有力な人材を集結して創立されたのである。

 本編では、本学が創立するに至った経緯と時代背景について語っていこう。

写真が一般の人々にも普及

 幕末に渡来した写真術は、明治の文明開化によって近代化していく日本において急速に受け入れられていった。写真は個人的な目的で撮影されるだけではなく、公的な記録や学術的な調査など様々な用途に利用され、社会的な需要が高まっていく。

 明治初期から中期にかけて、全国に多くの営業写真館が開業すると、次第に過当競争も生じるようになったが、撮影に手間がかかるコロディオン湿板法が主流の時代においては、写真の撮影は、主として特別な技術を身につけ、撮影のための設備を持った写真師たちがほぼ独占的に行っていた。
 明治10年代後半、コロディオン湿板法よりはるかに簡易に撮影できるゼラチン乾板が輸入されるようになると、写真の撮影対象や利用範囲は拡大し、撮影を生業とする写真師だけではなく、より多くの人々が写真を撮影するようになっていく*1。
 国産カメラの製造は明治10年代から始まった。当初は指物師などの職人の手作りによる営業写真館向けの木製の大型暗箱(カメラ)が中心であったが、1903(明治36)年に小西本店から発売された「チェリー手提(てさげ)暗箱」は、入門用カメラとして「教育用写真器機」と銘打たれ、小型で2円30銭と当時としては比較的に価格が安かったこともあり、一般の人々から大いに人気を集めるなど、明治30年代には簡便な撮影機材も普及し始めて
いた。

小西本店から発売された「チェリー手提暗箱」1903(明治36)年
図版 小西本店から発売された「チェリー手提暗箱」1903(明治36)年
画像提供:コニカミノルタ

『写真月報』が最先端の技術と表現を牽引

 薬種業を営むかたわら、1873(明治6)年に東京麹町で写真や石版印刷の材料の取り扱いを始めた六代杉浦六右衞門(当時は杉浦六三郎、1876年に六代杉浦六右衞門を襲名)は、1876(明治9)年に日本橋本町に店を移し、小西本店を創業した。
小西本店は日本における写真産業を興すべく、輸入に頼っていた感光材料やカメラの国産化などに取り組む一方で、写真技術の普及や写真文化の啓蒙にも力を入れていく。

 1894(明治27)年2月、小西本店は写真雑誌『写真月報』を創刊する。当時の小西本店は、写真の解説書なども数多く出版していたが、次々と入荷してくる海外メーカーの新しい感光材料やカメラ、レンズ、それらを使うための新しい技術などを紹介するために、広報誌ともいうべき冊子として『写真月報』を月刊で発行することにした。
 当初は無料で配布していたが、毎号掲載される写真に関する様々な最新情報は、営業写真師だけでなく、一般の写真愛好家から学術的な写真の研究者まで、幅広い読者から評判となり、飛ぶように注文が入ったという。創刊の翌年の1895(明治28)年1月号からは、内容を充実して有料購読制にした。
 1900(明治33)年頃からは、後に小西寫眞専門学校で教鞭を執る久野轍輔(ひさのてつすけ、後に改姓して秋山轍輔、1880-1944)や加藤精一が主筆として編集に関わった。
 戦時下の雑誌統廃合により1940(昭和15)年12月号で廃刊となるまで、『写真月報』は常に最先端の写真技術と写真表現について情報を発信し、長きにわたって写真界の指導的なメディアとして、日本の写真文化を牽引し続けた*2。

『写真月報』創刊号
『写真月報』創刊号
小西本店、1894(明治27)年2月
東京工芸大学中野図書館蔵

全国に写真家団体が設立

 1889(明治22)年、榎本武揚子爵(えのもとたけあき、1836-1908)を会長に、日本で最初の写真家団体となる日本写真会が設立された。華族や日本在住の外国人、学者などの富裕層や知識層の写真愛好家に加えて、小川一真など当時の代表的な写真師や写真器材商の六代杉浦六右衞門などが会員となり、定例の研究会や撮影会などを開催した。
 初期の写真愛好家の多くは富裕層や知識層などの限られた人々であったが、明治30年代に入ると、乾板や小型の写真機の普及によって、徐々に一般の写真愛好家も増加していく。
 彼らは旺盛な好奇心を持って、写真に関する解説書や写真雑誌から知識を得て、写真家団体や写真雑誌が主催する懸賞に応募したり、写真展で作品を発表したりするなど、活発に活動していった。そのような動向から、写真の芸術としての価値を追求しようとする「芸術写真」という概念も形成されていく。

 明治20年代から大正初期にかけて、全国各地に写真家団体が結成された(明治20年代から大正初期にかけて国内で設立された写真団体は90ほど確認されている)。その中でも、とりわけ影響力のあった写真家団体は東京写真研究会である。

 1904(明治37)年、東京高等商業学校(現在の一橋大学)の同窓生で、ともに『写真月報』の編集に関わっていた久野轍輔と加藤精一は、「ゆふつゞ社」という写真研究会を結成する。「ゆふつゞ」とは宵の明星を意味し、「ゆふつゞ社」の内規には「我写真界に率先し、芸術写真の研鑚をなさんとする者相会して」とあり、写真に芸術表現としての新しい可能性を見いだそうとする芸術写真という概念の確立を目指していた。
その後、「ゆふつゞ社」のメンバーは、1901(明治34)年に発足し、活動休止状態にあった東京写真研究会を再興するかたちで「ゆふつゞ社」を発展的に解消して、1907(明治40)年より東京写真研究会として活動を開始する*3。

 東京写真研究会は、小西本店の後援を受け、久野轍輔を主幹として、定例の講演会や撮影会などを開催していく。1908(明治41)年12月には、日本橋で第一回品評会(会員による公募写真展)を開催した。出品作品数は300点以上の大規模なものであった。
 第一回品評会は会員向けの展覧会であったが、1910(明治43)年3月には、「東京写真研究会第一回展覧会」が上野竹之台陳列館で一般公開され、469点の写真作品が展示された。
 当時の上野竹之台陳列館は、文部省美術展覧会(通称「文展」)が開催されていた権威ある美術展会場であり、この展覧会は、その規模と内容から新聞などでも取り上げられ、写真業界だけでなく、各界に大きな反響を呼んだ。
 これをきっかけとして、東京写真研究会は毎年(1943年までほぼ毎年開催、1948年より再開)展覧会を開催するようになる。「研展」と呼ばれた同展は、大正期にかけて芸術写真の中心地の役割を担うようになった。

後編につづく。

註:
*1 ゼラチン乾板 Gelatin Dry Plate
イギリスの医師で、写真家でもあったリチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox, 1816-1902) が1871年に発表した感光材料。それまで主流だったコロディオン湿板は、撮影時にガラス板に薬品を塗り、濡れたまま撮影しなくてはならず、手間がかかるものだった。ゼラチン乾板は、ガラス板の表面にあらかじめ臭化銀ゼラチン乳剤を塗布・乾燥させた工業製品で、格段に取り扱いが楽になり、なおかつ高感度であった。ガラス板は重くて破損しやすく、20世紀に入るとフィルム感材が主流となるが、平滑性が高く温度や湿度、経年による伸縮が少ないという特徴から、天文写真など特殊な分野ではその後も使用され続けた。

*2 小西本店から創刊された『写真月報』は、1910(明治43)年11月号から編集局として独立した写真月報社からの発行となる。1923(大正12)年9月に発生した関東大震災により写真月報社は火災に遭い、同年9月号と10月号を休刊した後、11月号からは小西寫眞専門学校出版部から発行されることになった(12月号は東京雑誌協会の協定により休刊)。
1926(大正15)年に校名が東京寫眞専門学校へと変更になったことにともない、同年4月号から東京寫眞専門学校出版部発行となり、1934(昭和9)年の新年号から再び写真月報社発行に戻る。震災の影響とはいえ、写真界をリードする雑誌が本学の出版部から発行されていたことは、当時の写真界における本学の位置を知る上で興味深い。
『写真月報』とともに明治・大正を代表する写真雑誌として『写真新報』が(1882年創刊/月刊)ある。日本最初の写真雑誌とされる『脱影夜話』(1874年創刊)の流れをくみ、発行元を変えながら刊行され続けていたが、『写真月報』と同じく1940(昭和15)年12月号で廃刊。

*3 東京写真研究会(第一期)は、当時気鋭の営業写真師12名による研究会として、1901(明治34)年に発足した。後に六代杉浦六右衞門も会員になるが、日露戦争勃発の影響もあり活動は短期間で停止した。第一期のメンバーには、小西寫眞専門学校創立時の講師である宮内幸太郎(みやうちこうたろう、1872-1939)や前川謙三(まえかわけんぞう、1873-1946)もいた。小西本店は、写真文化振興のために直接的に援助できる団体とするため、東京写真研究会の再興を後援した。

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