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工芸ヒストリー04
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小西寫眞専門学校の創立、建学の精神(後編)

写真専門の教育機関を設立し、社会全体の発展に寄与する

 明治後期から大正初期にかけて、一般社会に写真が急速に普及したことを背景に、芸術写真のような新しい写真の文化的潮流が生まれ、海外からは続々と新しい写真技術が入ってくるようになった。
 それまで写真術を独占していた営業写真師たちも、系統的な教育による高度な知識と技術を身に付けなければ、一般の写真愛好家たちと差別化できないという危機意識を持つようになった。それが東京写真師組合の要請となり、1915(大正4)年の東京美術学校臨時写真科の設置へとつながった。写真教育の必要性については、それ以前から議論されており、明治後期には写真の実技を教える小規模な学校や塾なども存在していた*1。

 たとえば六代杉浦六右衞門は、1894(明治27)年10月号の『写真月報』において「写真研究院ノ設立ヲ望ム」と題して、欧米各国の写真教育の状況を寄稿した。そして、欧米の写真界において新しい技術や優れた作品が生み出される基盤は写真教育にあるとして、日本における写真の教育機関の設立の必要性を強く訴えた。

 1916(大正5)年、小西本店は、中央との技術格差が開きつつあった地方の営業写真師の師弟を対象として、技術向上を目指す夏期写真講習会を開始する。この講習会はその後毎年一回開催され、当時の営業写真界から大きな歓迎を受けた。
 小西本店は、この夏期写真講習会だけでなく、地方の写真師の会合へ、教材として欧米の著名な写真家の作品や、東京写真研究会の優秀作品などを送ったり、秋山轍輔や加藤精一を講師として派遣したりするなどして、全国的に写真師の技術の底上げを図った。

 営業写真師の後進を育成する夏期写真講習会の実施や、東京写真師組合と共に東京美術学校写真科の設置にも尽力した六代杉浦六右衞門であったが、さらなる写真専門の高等教育機関設立の構想を抱くようになっていた。
 しかし1921(大正10)年、六代杉浦六右衞門は他界し、後事は七代杉浦六右衞門に託された。その遺言の中に、写真専門の教育機関を設立することが含まれていたのである。

学校設立の趣意

 事業を引き継いだ七代杉浦六右衞門は、小西本店の組織変更(1921年10月に合資会社小西六本店へ改組改称)などを経て、先代の遺志を受けて学校設立に着手した。

七代杉浦六右衞門
七代杉浦六右衞門

 1922(大正11)年より校舎の建設を開始し、1923(大正12)年1月には、文部省に「私立小西寫眞専門学校設置の件」ならびに「財団法人小西寫眞専門学校設立に関する件」の申請を行った。
 同年3月7日、文部省告示135号をもって認可が公示され、財団法人小西寫眞専門学校が設立された。

財団法人設立時の役員は以下のとおりである。
理事長 七代杉浦六右衞門
理事 秋山轍輔、江頭春樹、小野隆太郎、春日定夫、加藤精一、杉浦誠次郎、前川謙三、宮内幸太郎、結城林蔵(校長)
監事 杉浦仙之助、杉浦宗次郎、渡辺由三郎

 この後、開学を機に七代杉浦六右衞門は理事長から退き、加藤精一が理事長の任に就いた。

 校地は東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷325番地850坪であり、当時、東洋一とうたわれた北側に大きな採光窓がある写場(撮影スタジオ)や暗室、化学実験室などを完備した420坪の2階建て木造校舎が建設された。財団の設立基金の5万円と校舎の建設費7万円は、財団法人維持代表者である七代杉浦六右衞門が出資した。

小西寫眞専門学校創立時の校舎
小西寫眞専門学校創立時の校舎 1923(大正12)年
中央奥に大きな採光窓がある写場の建物が見える
創立時の写場での撮影実習
創立時の写場での撮影実習 1923(大正12)年

財団法人小西寫眞専門学校設立に際し、七代杉浦六右衞門が関係各方面に送った趣意書には次のようにある。
「写真術は諸般の学術技芸其他一般文化の発達に須要欠くべからざるものたるは言ふを待たず、其の応用は近時非常に浩汎なる範囲にわたり、内外国を通じて斯術の応用は実に顕著なる状態に在り、然るに翻て我国に於ける写真教育を顧るに、先に東京美術学校に臨時写真科の設置せられたると、夏期写真講習会の毎歳一回開催せらるゝ以外には施設の見るべきもの一も之あることなく、識者の常に遺憾とせるところなりき。(中略)いささか本校設立の趣旨を述べ、あまねく識者の贊襄(さんじょう)を請ひ其有終の美をまっとうすることを得ば、ただに斯界の為めのみに止まらざるべし、(後略)」(大正12年2月)

 これによれば、小西寫眞専門学校の設立趣意は、単に営業写真師の後進の育成だけが目的ではないことがわかる。写真は、学術、技術、芸術、その他一般文化の発達に必要不可欠なメディアであり、その応用範囲は広く、写真専門の教育機関の設立は、写真業界と社会全体の発展に寄与することを示しているのである。

 明治から大正にかけて、写真と印刷という新しいメディアに着目して事業を興し、感光材料やカメラの国産化というテクノロジー分野での挑戦と、写真雑誌の発行や写真家団体への支援など、アートとしての写真文化の啓蒙にも力を尽くした六代杉浦六右衞門にとって、小西寫眞専門学校の創立は社会への究極の恩返しであったのだろう。そしてその遺志は、現在の本学の教育にも脈々と受け継がれている。

註:
*1 明治から大正初期にかけての写真術修得の場として、「写真学校会」(浅草、推定1872年)、「写真講習所仮場」(本郷、1894年)、「女子写真伝習所」(牛込、1902年)、「実科高等写真学校」(長崎、1913年)、「大阪写真学院」(大阪、1915年)などが確認されている。詳細は不明の学校もあるが、いずれも教育令や学校令などに準じて認可された専門学校ではなかった。( )内は開設地と開設年

参考文献
・『写真月報』小西本店他、1894年〜1940年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・ 鎌田弥寿治『日本写真教育史』東京写真大学短期大学部出版部、1975年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・ 飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』筑摩書房、1986年
・ 日本の写真家 別巻『日本写真史概説』岩波書店、1999年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・ 久留島典子、高橋則英、山家浩樹編『文化財としてのガラス乾板』勉誠出版、2017年
・ 武野谷茂夫「幕末明治の写真教育と戦前の写真の学校」日本写真文化協会『写真文化』、1990年1月号〜12月号
・原京一、田村寛、加藤春生、久保走一「わが国における初期写真教育の系譜」日本写真芸術学会誌、1995年 第4巻・1号

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