東京工芸大学
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工芸ヒストリー08
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小西寫眞専門学校の教育

創立時の入試とカリキュラム

 1923(大正12)年に創立した小西寫眞専門学校は、当時、極めて先進的で独創的な教育機関であったといえる。本稿では、その創立時の教育について触れておこう。

第一期生の募集が始まる

 1923(大正12)年3月、文部省からの設置認可を得た小西寫眞専門学校は学生募集にかかった。『写真月報』や新聞などに発表した第一期生の募集要項は以下のとおりである。

本科:
 1. 入学資格 中学校卒業程度*1
 2. 修業年限 3年
 3. 募集人数 30名
 4. 入学試験 「数学」「物理」「化学」「英語」「図画」
 5. 本科修了者には写真学士の学位を与える。

学生募集の新聞広告1923(大正12)年3年17日
入学資格は中学校卒業程度とする本科を30名募集し、
ほかに選科・別科若干名の募集などが記載されている
読売新聞 朝刊広告

 このほかに、実技・実習を主として修業年限を1年以上とした選科、入学資格を小学校卒業以上とした別科が設けられた。いずれの科も入学金は10円、授業料は年間150円であった。また、本科修了者がさらに研究を深めるため研究科も設けられた。

 入学試験は、当時はまだ幡ヶ谷の校舎が完成していなかったことから、蔵前の東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を会場にして、1923(大正12)年4月5日から7日まで、3日間かけて実施された。

 この試験によって入学を許可された学生は、本科25名の他、選科10名、別科10名の合計45名であった。そして同年4月23日、まだ木の香りも残る竣工したばかりの代々幡町幡ヶ谷の校舎(第4話参照)にて、第一期生の入学式が行われた。

理系・工学系と美術系の試験を課す

 現代の大学においては、教育に関して「アドミッション・ポリシー(入学者受入れの方針)」「カリキュラム・ポリシー(教育課程の編成方針)」「ディプロマ・ポリシー(学位の授与方針)」という3つのポリシーを策定し、公表することが求められている。即ち、どのような学生を受け入れ、どのような教育を行い、どのような者に学位を与えるかという、教育機関の根幹をなす方針だ。
 もちろん、創立時の大正時代にはなかった言葉だが、それらを当時の入学試験や授業科目の編成、学位と照らし合わせてみると、当時の小西寫眞専門学校の独自性が見えてくる。

 前述のとおり、本科の入学試験科目は、「数学(代数・幾何)」「物理」「化学」「英語」「図画」の5科目であった。実技科目である「図画」を除けば、いまでいえば理系・工学系大学の入学試験科目そのものである。「図画」については、鉛筆を用いた自在画とされており、詳細な記録は残されていないが、いまでいえば美術系大学の実技試験に当たる。つまり、理系・工学系大学の入学試験と、美術系大学の入学試験を同時に課していたような内容である。
 「アドミッション・ポリシー」を具現化したものが入学試験の科目だとすれば、創立当時の小西寫眞専門学校では、すでにテクノロジーとアートを融合した教育を実践するため、入学者にその素養を求めていたことが見てとれる。

 第一期生は、東北から九州まで日本全国から集まった。前述のとおり、入学金は10円、授業料は年間150円であったが、これは当時の他の専門学校や大学と比べてかなり高額な授業料であり、私立大学の医学部と同等であったようだ。
 それでも当時の資料によれば、最新の設備と機器、材料を用いた教育を維持するためには、学生から納付される授業料だけでは運営費がまかなえず、財団法人維持者である杉浦家から多くの支援を受けていた*2。つまり、当時の小西寫眞専門学校では、社会の発展に寄与するため、学生たちが納めた授業料以上の教育を授けていたといえる。

本科の卒業生には「写真学士」を授与

 本科の3年間のカリキュラムについては第6話でも触れているが、第一線で活躍する優れた教育陣を揃え、写真の最先端の理論や実技などの専門科目に加えて、「数学」や「化学」など理系の科目、「図画」や「美術工芸史」など美術系の科目、「英語」や「経済」などの基礎教養科目が、体系的に組み合わされていた。
 これらの科目を修得した本科の修了生には「写真学士」の学位が授与された。

創立にあたって発表された小西寫眞専門学校本科の教育課程
『写真月報』1923(大正12)年4月号より、写真月報社

 当時の学校令の下で「学士」の学位を与えられたのは、修業年限3年以上(医学部は4年以上)の大学と一部の専門学校などの高等教育機関のみであった。
 創立メンバーの小野隆太郎によれば、「写真学士」という称号はそれ以前にはなかったため、当初の学校設置計画では想定していなかったことだった。しかし、設置申請後に文部省から、その高度な教育内容に鑑み「写真学士」の称号を与えるとの通知があった。当時の創立メンバーは「せっかくくれると言うのだから、もらっておけばよい。邪魔になるものではあるまい」と語っていたそうだが、それは写真が、医学や農学、経済学などと並んで、新しい学問として認められたことにほかならなかった。

 当時、小西寫眞専門学校は略して「写専」と呼ばれていた。文部省に認可された写真の専門学校は一校しかなかったため、「写専」といえば本学と決まっていた。それは後に東京寫眞専門学校と改称後も同様であった。

創立当時の授業風景
写場(撮影スタジオ)には最先端の設備や機器を完備し、当時「東洋一」とうたわれた
創立当時の授業風景(修整実習)
創立当時の授業風景(デッサン)
創立当時の授業風景(化学実験)

新しい学び舎と関東大震災

 創立時の校舎は東京府豊多摩郡代々幡町幡ヶ谷325番地にあった。(第4話参照)現在の渋谷区本町であり、いまの新国立劇場がある初台の交差点から山手通りを少し北上し、左に入った辺りである。本学中野キャンパスからは歩いて10分ほどの距離になる。
 東洋一とうたわれた写場(撮影スタジオ)や暗室、特殊顕微鏡やレントゲン撮影装置など、最新鋭の教育設備・機器を完備した校舎であったが、できた当時はまだ周辺に学生が下宿できるような住宅がなく、地方から上京した学生たちは少し離れた場所に部屋を借りて通っていた。校舎の向かいには、貴族院議員や南満州鉄道総裁を務めた林博太郎(はやしひろたろう、1874-1968)伯爵の屋敷があり、新入生などは間違えてよく伯爵邸に迷い込んだという。

創立当時の校舎の見取図
『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社社史編纂室編、
1973 (昭和48)年より一部修正して掲載

 こうして小西寫眞専門学校は、高い理想を掲げた創立メンバーと、希望と情熱に満ちあふれた学生たちが集い、順調な発足をみせたのである。

 しかし、開校して4カ月を少し超えた1923(大正12)年9月1日、関東大震災が関東一円を襲った。マグニチュード7.9と推定される大地震は南関東から東海に及ぶ地域で、多数の死者・行方不明者と、火災や強い揺れによる家屋の損壊など広範な被害が発生した。
 幸い新築したばかりの小西寫眞専門学校の校舎は焼失を免れた。幡ヶ谷一帯は地盤の固い武蔵野台地上に位置していることが幸いし、下町地域よりも被害は少なかったが、校舎の壁という壁が落ちるなどの被害が発生したため、開校初年度の二学期の授業開始は延期を余儀なくされた。

註:
*1 いわゆる旧制中学校。1886(明治19)年の中学校令の基づく中等教育機関。高等小学校を修了した12歳以上の男子のみ入学資格が与えられ、1923(大正12)年当時の修業年数は5年間。1947(昭和22)年に学校教育法が施行され、現在の高等学校へ移行した。

*2 当時の事務長によれば、3学年で100名程度の学生から納付される授業料は年間で1万5000円程度、それに対して杉浦家から毎年2万円程度の寄付があったようだ。その他にも、小西六本店から機器や材料などの提供も受けていた。

参考文献:
・『写真月報』写真月報社、1923年4月号
・『東京寫眞専門学校一覧』東京寫眞専門学校、1936年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年

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