東京工芸大学
東京工芸大学
  • Facebook
  • Instagram
  • YouTube
工芸ヒストリー09
工芸ヒストリーメインビジュアル

東京写真専門学校に校名変更/写真理学科・写真芸術科を設置

社会や時代の要請に応じた改革、いまに続く教育課程の礎

 前稿のとおり、小西寫眞専門学校が開校した1923(大正12)年9月1日、関東一円を関東大震災が襲った。地震に次いで発生した大火により、東京、横浜などでは多くの家屋が焼失した。
 幸い小西寫眞専門学校は校舎の焼失を免れたが、校舎の壁が落ちるなどの被害が発生したため、9月13日に緊急の理事会が開かれ、二学期の授業開始は9月1日から10月15日へ延期されることになった。二学期開始が延期された間に、校舎の応急処置を施すことになったが、一部の使える校舎は被災した六桜社の宿舎としても使われていた*1。

震災からの復興が進む

 関東大震災の被害は甚大なものであったが、復興へと立ち上がった人々に歩調を合わせて、本学も授業を再開し、学生たちは学び舎へと戻ってきた。

 震災の翌年の1924(大正13)年6月9日には、校友会が発足して各種のクラブ活動が始まり、学生生活の充実がはかられた。同年10月には、創立の祖である六代杉浦六右衞門の命日である10月5日を創立記念日に定め、第一回の創立記念式典が行われている。

 震災から2年目の1925(大正14)年には、創立記念日にあたって10月3日から幡ヶ谷校舎で初の学生作品による写真展が開催された。当時の学生によれば、一週間ほど泊まり込んで準備にあたったそうだ。写真展は来場者で行列ができるほど盛況で、新しい教育機関としての本学を世に知らしめるものになった。

幡ヶ谷校舎での学生写真展

広く社会への貢献を表す校名へ

 1926(大正15)年3月、かねてから提起されていた校名変更が理事会で承認され、東京写真専門学校に改称することになった。小西本店という一企業の付属機関のイメージが残る小西寫眞専門学校から、より広く写真界と社会全般に貢献する教育機関としての姿勢を打ち出す改称であった。
 同年3月22日、改称を認可することが文部省告示第153号で公表され、正式に東京写真専門学校となった。

東京写真専門学校への改称公告が掲載された『写真月報』の表紙と公告頁
『写真月報』1926(大正15)年4月号、東京写真専門学校出版部

第一回の卒業式を挙行

 東京写真専門学校に改称して間もない1926(大正15)年3月25日、第一回の卒業式が挙行された。
 卒業式では、結城林蔵校長の訓辞の他、文部大臣の岡田良平(おかだりょうへい、1864-1934)、東京府知事の平塚廣義(ひらつかひろよし、1875-1948)、後に本学の三代目の校長となる陸地測量部長の大村齊(おおむらひとし、1876-1964)、東京写真師協会理事長の江崎清(えざききよし、1877 -1957)などから祝辞があり、本学への注目の高さを物語るものであった。

 結城校長は卒業生に向けた訓辞で、「科学の進歩に伴い、写真術も長足の進歩発達を遂げ、今日においてはあらゆる科学的な研究、文化全般の施設上、直接に間接に写真術の補助を借りないものはない。すなわち写真術は今日私たち人間の社会生活上に必要欠くべからざるものとして重要視されることに至りました。」と述べ、社会における写真の重要性を説くとともに、「理論に偏せず、実技に偏らず、学理と実際とを調和して、写真界における各種各様の事業に就くにあたり堅実なる基礎のもとにそれぞれの専門の研究を進むに差し支えないような素養を作る」という教育方針を改めて語り、社会に出ていく若者たちを激励した。

 第一期の卒業生は本科14名、選科1名、別科2名の合計17名であった。入学時の学生数は45名であったが、それが半分以下になってしまったのは、やはり関東大震災の影響が大きかったという。第一期の卒業生の就職先は、営業写真館4名、写真工業関連会社2名、印刷会社2名、写真材料商1名、新聞社1名などで、そのまま東京写真専門学校に教員として採用された者も2名いた。

 第一期の卒業生は直ちに同窓会を結成し、名称を「東京写真学士会」とした。当時、「写真学士」という学位は東京写真専門学校でしか取得できない学位だったので、卒業生にとってその名称は誇らしいものであったに違いない*2。
 「東京写真学士会」では、1929(昭和4)年より写真に関する研究論文などを掲載した会報を年一回発行し、東京や大阪で写真展を開催、アマチュア向けの写真講習会も開催するなど、物資不足による統制が厳しくなる1940(昭和15)年頃まで活発な活動を続けた。

東京写真専門学校 第一回卒業式記念写真

教育課程を第一部と第二部に

 1934(昭和9)年、本学が創立して10年余りが経過した頃、写真を取り巻く社会の変化や時代の要請に応えるため、大きなカリキュラムの改正が実施された。第三学年の教育課程を第一部と第二部に分けたのである。第一部は「肖像写真」と「美術写真」の教育を主とし、表現に重きを置いた課程。第二部は「写真科学」と「科学写真」の教育を主とし、技術に重きを置いた課程とした*3。
 当時の学科課程表によれば、第一学年、第二学年については、表現と技術の科目を体系的かつバランスよく配置した従来どおりのカリキュラムであるが、第三学年については、第一部においては撮影や修正、印画法などに力を入れ、第二部においては、化学や化学実験、製図などに力を入れたカリキュラムとなっている。

1936(昭和11)年の学科課程及び授業時間表
備考には、第一部は肖像写真及び美術写真を主とし、
第二部は写真科学及び科学写真を主とすることが記されている
『東京写真専門学校一覧』1936(昭和11)年より、東京写真専門学校

 創立当初、入学者は営業写真館の師弟が多く、卒業後は営業写真関係に就職する者が多かった。しかし年を追うごとに、営業写真館の師弟以外に、写真という新しいメディアに興味を持つ一般家庭からの入学者の割合が高くなった。卒業後の進路も多様化し、営業写真関係への就職だけでなく、表現・撮影系の職種としては新聞社や出版社、映画制作会社など、また技術・研究系の職種としては、写真工業や印刷関連の企業、政府や軍の関係機関などに進む学生が増えていた。そのような状況の変化に鑑み、また学生たちからの要望もあって、表現と技術、それぞれの専門性をより高めた教育課程を設置することになったのである。
 後に世界で初めて内視鏡の開発に成功する杉浦睦夫(すぎうらむつお、1918-1986)は、1935(昭和10)年に本学へ入学し、この第二部で学んでいる。

二代目校長、木村恵吉郎

 1939(昭和14)年6月、創立以来、本学の発展と充実に尽力してきた結城林蔵校長が、高齢による健康不良もあり、惜しまれつつ退任した。後任は、東京商科大学(現在の一橋大学)名誉教授で、正三位勲一等という高い位階を持った木村恵吉郎(きむらけいきちろう、1877-1945)*4であった。

 二代目の校長となった木村恵吉郎は、さらなる教育の質の向上と経営の安定化をはかるため、校舎の増設と学生の定員数を増やすなどの改革に着手した。

東京写真専門学校二代校長 木村恵吉郎

 1940年(昭和15年)、神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝う記念事業の一環として、財団維持者の杉浦家より基金拡充のため50万円が寄付され、あわせて中野区川島町(現在の中野区弥生町)の土地(5,540㎡)も運動場として寄贈された。これを機として1941年(昭和16)年3月には文部省より許可を得て、1943(昭和18)年4月にかけて幡ヶ谷校舎の大規模な増改築が進められた。

増改築完成後の幡ヶ谷校舎 1943(昭和18)年
創立当時(第4話図版参照)と比べて、右手前に1棟、中央に1棟、
左手前に2棟(いずれも白い建物)校舎が増築されている

 1941(昭和16)年3月には、学生定員を増やすことが文部省から認可され*5、あわせて本科の第一部を「写真芸術科」、第二部を「写真理学科」として設置することが認可された。
 これが、現在の本学の特色でもある、芸術学部と工学部という対極的な二つの課程からなる教育体制の原形である。

文部省告示567号 1941(昭和16)4月18日
1941(昭和16)3月31日より東京写真専門学校の本科を
写真芸術科および写真理学科とすることを認可

註:
*1 本学自体は震災の影響は少なかったが、秋山轍輔と加藤精一の両教授が編集に手腕を振るっていた『写真月報』の発行元である写真月報社は火災で焼けてしまった。そのため、編集部は場所を移すことになり、『写真月報』は1923(大正12年)11月号から、小西寫眞専門学校の出版部より発行されることになった(第3話*2参照)。震災の影響とはいえ、業界の指導的な役割を持つ出版物が教育機関から発行されることになったのは、当時の写真界において本学が中心的な存在であったことを示している。

*2 第一期生で後に本学教授となり、「東京写真学士会」の初代会長となった新井保男(あらいやすお、1904-1990)によれば、「東京写真学士会」という名称には「冷や汗が出るくらい照れくさい」という意見もあったそうだ。1950(昭和25)年の東京写真短期大学発足にともない「東京写真短期大学同窓会」に改称。その後も大学の改称にあわせて1966(昭和41)年より「東京写真大学同窓会」、1977(昭和52)年に「東京工芸大学同窓会」と改称し現在に至っている。

*3 第一部の「美術写真」とは、撮影だけでなく修正や印画法の実習にも力を入れていたことから、当時の芸術写真の潮流に則り、美術作品としての写真印画を意味すると考えられる。第二部の「写真科学」とは、レンズや感光材料など写真に用いられる科学、また「科学写真」とは、X線撮影や顕微鏡撮影など科学に応用される写真を意味すると考えられる。

*4 木村恵吉郎は東京に生まれ、東京大学応用化学科卒業後、1905(明治38)年に東京高等商業学校助教授となる。専門は応用化学。その後、米国留学を経て、1920(大正9)年に東京高等商業学校が東京商科大学に昇格するとともに教授となり、1921(大正10)年より同大学予科長を務める。1937(昭和12)年に同大学を退職し、1939(昭和14)年6月より1944(昭和19)年3月まで東京写真専門学校の校長を務めた。
位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられた当時の栄典の一つ。

*5 それまで本科の学生定員は一学年40名程度であったが、1941(昭和16)年より「写真芸術科」「写真理学科」それぞれ一学年80名の定員となった。

参考文献:
・『写真月報』小西寫眞専門学校出版部、1923年11月号
・『写真月報』東京写真専門学校出版部、1926年4月号
・『東京写真専門学校一覧』東京写真専門学校、1936年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『東京工芸大学同窓会々報』第3集、東京写真大学同窓会、1976年
・『昭和写真小史』東京写真大学・同窓会 五十周年記念出版委員会編 、1977年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『東京工芸大学同窓会報 ひろば』第56号、東京工芸大学同窓会、1990年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年

前の記事
次の記事
工芸ヒストリートップに戻る