東京工芸大学
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工芸ヒストリー11
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戦時下の教育、東京写真工業専門学校に校名変更

戦局に翻弄されながらも自由な校風を保つ

 1941(昭和16)年、文部省から認可を受けた東京写真専門学校は、現在の本学の工学部と芸術学部の原形ともいえる「写真理学科」と「写真芸術科」という二つの教育課程を設置し、入学定員を大幅に増やして新たなスタートを切った(第9話参照)。
 3年間かけた幡ヶ谷校舎の大規模な増改築は1943(昭和18)年4月には完了し、当時最先端の写真の高等教育機関として、本学はますます発展を遂げていくはずだった。
 しかし時は戦時下、戦争の荒波に本学も翻弄されていくことになる。

学生の勤労奉仕が始まる

 本学が教育課程を改正した1941(昭和16)年10月16日、緊迫する戦況に応じた臨時措置として、大学や専門学校など高等教育機関の修業年数短縮の勅令が公布された。そして、同年12月8日の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争勃発後、12月27日には本来なら翌年3月に卒業するはずだった17期生が、心ならずも学窓を巣立っていった。*1
 また、1942(昭和17)年の夏休みからは学生の軍需産業への「勤労奉仕」が始まり、本学の学生たちも印刷工場などに動員されるようになっていた。翌1943(昭和18)年6月25日、政府が「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定したことで、「勤労奉仕」は「勤労動員」と呼ばれるようになる。本学の学生たちの動員先も都内の軍需関係の工場だけでなく、千葉県の東城村(現在の東庄町)や旭村(現在の四街道市ほか)の暗渠掘削の工事現場などにまで拡がっていた。
 一方、兵員補充のため、1943(昭和18)年10月12日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系学生の徴兵猶予措置*2という特例は廃止され、本学においても成人に達した学生たちは徴兵され、あるいは志願兵として戦地へ赴くことになった。同年10月21日、神宮外苑において出陣する学徒の壮行会が催された。激しく秋雨が降りしきる中、歩武堂々と行進する約2万5000人の若者たちを市民は見送ったのである。

戦時下の教練風景

再度の校名変更と校長交代

 1944(昭和19)年になると戦況は厳しさを増し、教育界でも官公立、私立を問わず、時局に合わせて体制を改める学校が増えてきた。

 東京写真専門学校では、既に多くの卒業生が写真の専門高等教育を受けた技術者として、軍関係の研究所や諸施設で実務に就き、また報道班員として外地での記録撮影などにも従事していた。本学では写真理学科と写真芸術科のいずれにおいても、技術と表現を融合した独自のカリキュラムを持っていたが、それでも文科系の教育機関であるとされ、前述のとおり1943(昭和18)年には徴兵猶予措置を取り消されていた。そこで、1944(昭和19)年4月より校名を東京写真工業専門学校へと改め、教育課程も「写真化学工業科」と「写真光学器械科」という理科系の二学科に編成し直すことで、徴兵猶予措置を取り戻すことにした。
 当時の学籍簿によれば、教育課程の変更前に入学していた学生も全て、写真理学科、写真芸術科にかかわらず、新たな写真化学工業科か写真光学器械科のいずれかに編入されている。そして、兵器として用いられる写真機器および写真感光材料を製造する技術者の養成を急務として、教育内容も理科系へと大幅に転換した。

東京写真工業専門学校に改称、1944(昭和19)年

 この校名変更とともに二代校長の木村恵吉郎(第9話参照)が退任し、1944(昭和19)4月、陸軍中将の大村齊(おおむらひとし、1876-1964)*3が三代校長に就任する。
 校長就任時の大村は、1943(昭和18)年10月に公布された軍需会社法により軍需会社の指定を受けていた小西六写真工業株式会社(現在のコニカミノルタ株式会社)の総合研究所長も務めていた。大村は総合研究所の本部があった同社淀橋工場(1943年に六桜社より改称)から、軍服姿で毎日歩いて登校していたという。

三代校長 大村齊

学徒動員で学生も労働に従事

 軍人であった大村の校長就任に象徴されるように、戦況はいよいよ不利となり、米軍のB29爆撃機による本土空襲も始まっていた。

 学徒動員は強化され、本学の学生たちも様々な動員先で労働にいそしんだ。本学の学生の動員先は小西六写真工業や富士写真フイルム(現在の富士フイルム株式会社)、日本光学工業(現在の株式会社ニコン)など写真関連の工場、または陸地測量部や海軍工廠など軍関係の写真関連施設が主だったが、荷役作業や農作業などの労働に従事することもあった。

 当時の学生によれば、そんな困難な時勢においても、本学には自由な校風が保たれていたという。1943(昭和18)年に入学した21期生によれば、中学校までは軍国主義的な「これをしろ」「あれはしてはいけない」と強制されるばかりの教育を受けていたが、本学入学後は「教えてあげます」とまず必要なことを教えてもらい、その後は自ら学修してそれを身に付けていく姿勢を学んだという。当時としては非常に変わった学校だと感じたそうだ。上級生は動員されて不在だったため、暗室などの施設は空いていて、新入生たちは広い校舎を少ない人数で使って学んでいたという。

空襲で幡ヶ谷校舎が消失

 1944年(昭和19)年11月から東京も空襲されるようになり、1945(昭和20)年1月からは、教員と学生が交代で宿直して校舎を守ることになった。
 同年5月25日の夜半、房総半島および相模湾方面から侵入した250機のB29の大編隊は、東京西部一帯に焼夷弾を雨のように降らせた。その夜、本学では写真化学工業科の学生約10名と、穂積英次(ほづみえいじ、1918-2007)助教授*4が当直していた。穂積によれば、焼夷弾は本学の校舎に直接は落ちなかったが、周囲からの延焼で火に囲まれてしまったという。
当直の学生たちは水や砂をかけて必死に消火しようとしたが、その甲斐もなく校舎全体が瞬く間に劫火に包まれた。穂積は創立以来の全ての学生の記録である学籍簿を持ち出し、学生たちとともに校舎の向かいにあった林博太郎伯爵邸(第8話参照)に避難した。こうした状況下でも学生たちに一人も怪我がなかったことは不幸中の幸いであった。

校舎の火勢が衰えてきた様子、1945(昭和20)年5月26日 午前3時頃

 空襲の翌日、東京写真工業専門学校の校舎は跡形もなく焼失していた。急を聞いて駆けつけた学生たちは、灰燼に帰した学び舎を前に呆然と立ち尽くすのみだった。校舎がなくなってしまっては学びを続けることもできず、学生たちはそれぞれの動員先へと戻っていった。

焼失した東京写真工業専門学校幡ヶ谷校舎跡、1945(昭和20)年

 同年8月15日、日本は連合国によるポツダム宣言を受諾したことを昭和天皇が玉音放送で公表し、終戦を迎えることになる。どこまでも青空が澄みわたった夏の陽差しの下、正午からラジオで放送された無条件降伏を告げる天皇陛下の「終戦の詔書」を、人々はまるで全ての時間が止まったかのように聞き入っていた。

註:
*1 修業年数短縮により、1942(昭和17)年3月に卒業するはずだった17期生が1941(昭和16)年12月に卒業したことに続き、18期生から21期生まで各年の9月に卒業している。校舎が焼失した1945(昭和20)年9月の21期生の卒業式は小西六写真工業の淀橋工場内で行われた。終戦直後の混乱で参加できなかった卒業生12名に対しては、1982(昭和57)年と1983(昭和58)年の3月に卒業証書を交付している。ちなみに、昭和時代は本学の卒業年と年号は平時であれば同じで、本学の2期生は昭和2年3月卒業になる。

*2 徴兵猶予措置
旧兵役法では、大学、高等専門学校の学生・生徒には徴兵猶予の特例があった。太平洋戦争開戦に伴い兵員不足が深刻化し、1941(昭和16)年10月、大学、専門学校などの修学年限を3ヵ月短縮して卒業生を対象に12月臨時徴兵検査を実施した。1942(昭和17)年度から1944(昭和19)年度の卒業者については修業年限が6カ月間短縮された。深刻な兵員不足を補うため、1943(昭和18)年10月12日に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、理科系および教員養成系の学生を除く一般学生の徴兵猶予が停止された。

*3 大村齊
北海道生まれ。1897(明治30)年に陸軍士官学校を卒業。陸軍に任官して日露戦争に従軍後、1910(明治43)年より1912(明治45)年まで、製版術の研究のためにオーストリアへ留学。陸地測量部写真班長などを経て、1924(大正13)年、陸軍少将に昇進するとともに陸地測量部長に就任。1929(昭和4)年に陸軍中将に昇進し、1944(昭和19)4月から1945年(昭和20)年11月まで本学三代校長を務める。

*4 穂積英次
東京生まれ。1941(昭和16)年に東京写真専門学校を卒業。同校で助手、助教授を務め、戦後は東京写真短期大学教授を長く務める。東京写真大学短期大学部学部長も務め、退職後は東京工芸大学名誉教授となる。主な著書に『図説写真技術』『図説色彩写真技術』(ともに共立出版)などがある。


参考文献:
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『資料日本現代教育史』三省堂、1974年
・『昭和写真小史』東京写真大学・同窓会 五十周年記念出版委員会編 、1977年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・文部科学省「学制百年史」学制百年史編集委員会、1972年

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