東京工芸大学
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工芸ヒストリー12
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戦後の再出発、東京写真短期大学の設置

新しい教育制度の下で「写大」として新たな船出

 1945(昭和20)年8月15日、日本は連合国によるポツダム宣言の受諾を公表し、太平洋戦争は終結を迎えた。
 沖縄戦から本土への空襲、広島・長崎の原爆投下などにより大きな被害を受けた日本は、連合国による占領下で復興への道を歩み出すことになる。

 各地に動員されていた本学の学生たちも学業に戻ろうとしたが、前稿11話のとおり、幡ヶ谷の校舎は戦火で失われてしまっていた。そこで、学生たちをとりあえず自宅に戻し、授業再開の目処が立つまで待機してもらうことにした。

十二社仮校舎での再開

 東京写真工業専門学校は、小西六写真工業株式会社(現在のコニカミノルタ株式会社)の厚意で、十二社(じゅうにそう、現在の東京都新宿区西新宿四丁目近辺)にあった同社淀橋工場構内の青年学校の施設を借用して、授業再開に向けて準備を進めることになった。同年9月29日には、ここを仮校舎として21期生の卒業式を実施した。

 同年10月15日にはようやく授業を再開したが、敗戦直後で物資は不足しており、教育環境は決して整ったものではなかった。

十二社の校舎、奥に見えるのは東京瓦斯(現在の東京ガス)淀橋供給所のガスタンク

 十二社の施設もまた戦禍で傷んでおり、仮校舎といってもバラックのようなたたずまいで、専門の教育施設は特設の暗室くらいだった。当時の学生によれば、その暗室の天井も穴だらけで、実習中に外の光が漏れ入る様子は、さながら暗闇の中に星を映し出すプラネタリウムのようだったという。
 引伸機*1などの必要機材も不足していたため、学生たちは幡ヶ谷校舎の焼け跡から部品を掘り起こし、自分たちで組み立てて使っていた。
 撮影に使うフィルムは、軍から払い下げられた航空撮影用の大判フィルムを手作業で小さく切り分けて使っており、時には進駐軍から流れてきたコダック(Kodak)やアンスコ(Ansco)の35mmフィルムを入手できたこともあったという。月2本だけ学生に配給される国産のブローニー・フィルム*2は貴重品で、東京・新宿などの写真材料店で高く買い取ってくれたことから、実習に使わずに売って生活費の足しにしていた学生もいたようだ。

校長交代と学科改正

 1945(昭和20)年11月に三代校長の大村齊が退き、小西六写真工業取締役で、淀橋工場長を務めていた東久世通忠(ひがしくぜみちただ、1899-1962)*3が四代校長として就任する。これによって小西六写真工業とはより密接な体制となり、学校の復興計画を進めていくことになった。

四代校長 久世通忠

 1946(昭和21)年4月、東京写真工業専門学校は再び教育課程を改正し、主として撮影技術や表現を学ぶ「写真技術科」と、写真材料や写真化学について学ぶ「写真工業科」の二つの学科とした。入学定員は各学科50名だった。
 教育制度が大きく変わるまでの短い期間であったが、戦後の東京写真工業専門学校は1949(昭和24)年まで学生を募集し、27期まで卒業生を世に送り出した*4。戦後の物資が不足する時代で、施設も機材もままならない状況ではあったが、野球部や卓球部、テニス部などのクラブ活動も再開した。ユニフォームは軍から払い下げられたカーテンから手作りするなど、貧しいながらもたくましく学生生活を謳歌していた。後に写真家として初めて文化勲章を受章(2019年)する24期生の田沼武能(たぬまたけよし、1929-2022)は、ちょうど学生時代の3年間を十二社校舎で過ごしている*5。

東京写真短期大学の発足

 1947(昭和22)年3月31日に教育基本法が公布され、新たに6・3・3制の教育体制を取り入れた学校教育法が4月1日から施行され、日本の教育制度は根本から変わることになった。
 戦前からの高等教育機関としての専門学校制度は廃止され、本学も新制の大学か工業高等学校、あるいは廃校にするかという三者択一を迫られた。
 こうした状況下で、小西寫眞専門学校の創立以来、長きにわたって理事長を務めてきた加藤精一が退任し、1948(昭和23)年12月、新たに小西六写真工業社長だった八代杉浦六右衞門(すぎうらろくえもん、1909-1995)が理事長の任に就いた。創立者の理想を受け継いだ杉浦は本学の発展に思いを巡らし、本学を写真の単科大学に昇格するため、東久世校長を委員長として準備委員会を設置した。

八代杉浦六右衞門

 杉浦はかねてから幡ヶ谷校舎では手狭だと考えていた。そこで幡ヶ谷の旧校地の借地権を地主に返還し、小西六写真工業の光学ガラスの溶解施設などがあった東京都中野区東郷町(現在の中野区本町)の同社総合研究所第一部の跡地2,240坪を、新たな大学用地として無償で提供した。ここが現在の中野キャンパスとなる。
 準備委員会には卒業生の集まりである東京写真学士会からも6人の委員が選ばれた。本学関係者や卒業生、各地の写真師、写真関係企業などに大学設置の募金を呼びかけると、準備資金はすぐさま2000万円にも達した。
 当初は、1949(昭和24)年4月の大学開設を目指したが準備が整わず、同年10月、修業年限2年の短期大学としての設置申請を文部省に提出した。翌1950(昭和25)年2月の大学審議委員会の審議を経て3月14日に設置認可が下り、各学科定員80名の「写真技術科」と「写真工業科」の二つの学科からなる東京写真短期大学が発足した。
 これを機に東久世校長は退任し、東京写真短期大学の初代学長には、東京美術学校と東京高等工芸学校で教授を歴任し、1948(昭和23)年から本学で教授を務めていた鎌田弥寿治(第2話参照)*6が就任した。

東京写真短期大学 初代学長 鎌田弥寿治

 1950(昭和25)年5月には新しい中野校舎が完成し、十二社の仮校舎から移転して、短期大学としての新入生を迎えた。
 短期大学発足の翌年1951(昭和26)年、財団法人を学校法人に改組し、理事は小西六写真工業をはじめ、オリエンタル写真工業、日本光学工業、富士写真フイルム、大日本印刷など、写真業界と印刷業界の大手企業から集った。

 六代杉浦六右衞門の遺志で創立された本学は、震災や戦禍といった時代の荒波を乗り越えて発展を遂げ、写真業界や印刷業界からの多大な支援を受けて、東京写真短期大学、通称「写大」として新たな船出をしたのであった。

中野校舎竣工時に制作された記念ポストカード、1950(昭和25)年

註:
*1 引伸機(ひきのばしき)
写真の原板フィルムから、画像を拡大してプリントを制作するため暗室で使用する光学機器。電球などの光源を用い、フィルムに記録された画像をレンズで拡大投影して印画紙に焼き付ける。ゼラチン・シルバー・プリント(Gelatin Silver Print)のような感度の高い現像印画紙と、ライカ(Leica)のような小さなフィルムサイズでも高解像度で記録できる精度の高い小型カメラの普及とともに使用されるようになった。

*2 ブローニー・フィルム 
中判カメラで使用する120フィルム(または220フィルム)規格の通称。フィルムの幅は約6cmで、カメラにより6×6、6×7、6×9と呼ばれるフォーマットなどで撮影できる。同規格のフィルムを用いたコダック(Kodak)社初期のカメラの商品名であるブローニー(Brownie)が語源。現在も一般に使われる35mmフィルムは幅35mmの135フィルム規格である。120フィルムが遮光紙で巻いてあるのに対して、135フィルムはパトローネと呼ばれる筒状の金属ケースに収められており、フィルム交換が容易である。もともと35mm幅のフィルムは映画用に開発されたもので、フィルムの両側に撮影時や映写時にフィルムを送るためのギアを噛ませるパーフォレーションと呼ばれる穴が空いている。映画用としては一コマ18×24mmの画面サイズで使用されていたが、二コマ分の24×36mmで一コマの画面サイズとする写真用カメラが普及し、広く一般に使用されるようになった。

*3 東久世通忠
東久世通敏(ひがしくぜみちとし、1869-1944)伯爵の長男として生まれた。祖父は幕末の七卿落ちの一人として知られる東久世通禧(ひがしくぜみちとみ、1834-1912)。1926(昭和元年)年に早稲田大学政治経済学部を卒業。1936(昭和11)年4月に合資会社小西六本店へ入社。1944(昭和19)年、父・通敏の死去にともない伯爵を襲爵。小西六写真工業株式会社の取締役および淀橋工場長、青年学校長を経て、1945(昭和20)年11月より1950(昭和25)年3月まで東京写真工業専門学校の校長を務める。また1946(昭和21)年5月の貴族院補欠選挙で当選し、1947(昭和22)年5月の同院廃止まで貴族院伯爵議員として在任した。

*4 1952(昭和27)年3月卒業の27期生については、1949(昭和24)年4月に入学した東京写真工業専門学校(修学年数3年)の卒業生と、1950(昭和25)年4月に入学した東京写真短期大学(修学年限2年)の卒業生が同期になっている。また1948(昭和23)年からは男女共学となり、初年度は女子学生が2名入学した。

*5 田沼武能は1949(昭和24)年に東京写真工業専門学校を卒業後、写真エージェンシーであるサン・ニュース・フォトスに入社した。戦後すぐの卒業生の就職先は写真関連企業に加えて、報道関係が増えたという。例えば24期生の就職先は、田沼のサン・ニュース・フォトスの他、朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、日本経済新聞社、スポーツニッポン新聞社、デイリースポーツ、山梨日日新聞社、東京放送(TBS)、日本放送協会(NHK)などで、卒業後の進路では報道関係の比率が一番高かったという。

*6  鎌田弥寿治
1883(明治16)年、徳島県に生れる。1908(明治43)年に京都帝国大学製造化学科を卒業し、京都大学、東北大学の講師を経て、1920(大正9)年より1922(大正11)年まで写真科学や写真製版の研究のために欧米に在留。東京美術学校、東京高等工芸学校で教授を歴任。1942(昭和17)年には日本写真学会会長に就き、後に名誉会員となる。1950(昭和25)年に東京写真短期大学の初代学長に就任し、1966(昭和41)年に退任。東京写真大学名誉教授となる。1977(昭和52)年に逝去。


参考文献:
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『昭和写真小史』東京写真大学・同窓会 五十周年記念出版委員会編 、1977年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
東京工芸大学ホームページ「田沼武能先生が文化勲章を受章」2020年

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