卒業生の肖像 02 杉浦睦夫
身体の中を写し出す世界初の「胃カメラ」開発
公開日:2022/7/5
1923(大正12)年の小西寫眞専門学校の創立から100年にわたって輩出された卒業生たちは、それぞれの時代において活躍し、社会に貢献してきた。1938(昭和13)年3月に東京写真専門学校を卒業した13期生の杉浦睦夫(すぎうらむつお、1918-1986)もその一人だ。
太平洋戦争で壊滅的な被害を受けた日本の産業界は、1945(昭和20)年の終戦後、徐々に立ち直ろうとしていた。そんな中、オリンパス光学工業株式会社(現在のオリンパス株式会社)の若手研究者だった杉浦は1950(昭和25)年、世界で初めて「胃カメラ」の開発に成功した。
正式には上部消化管内視鏡と呼ばれる胃カメラは、今では胃潰瘍や胃がんの診断に欠かすことのできない医療機器である。世界中で広く利用されている胃カメラ開発には、杉浦が本学で学んだ写真の技術と知識が大いに役立ったのである。
カメラと写真に魅了された少年時代
杉浦睦夫は1918(大正7)年3月13日 、静岡県浜名郡(現在の静岡県浜松市)で石炭会社を経営する家庭に生まれた。日露戦争(1904-1905)や第一次世界大戦(1914-1918)を経て日本の工業化は進展、電灯の普及に加えて工場の電化のため電力需要は急拡大した。発電用の石炭需要は旺盛で、石炭会社を営む杉浦の実家は裕福だったという。
杉浦は、当時は高級品だったカメラを子供の頃から遊び道具として使っていて、科学実験が好きな好奇心旺盛な少年だった。カメラという光学機械を使ってフィルムを露光して撮像し、印画紙に画像として定着させるという、光学と化学を組み合わせた写真技術に、杉浦少年は魅了された。
長じても写真への関心を持ち続けた杉浦は1935(昭和10)年4月、東京写真専門学校に入学する。当時、専門学校の修学期間は3年間であった。杉浦が入学する前年の1934(昭和9)年4月に東京写真専門学校は教育課程を改正し、第三学年の学科課程を現在の芸術学部につながる第一部と、工学部につながる第二部に分けていた(第9話参照)。第一部は「肖像写真」と「美術写真」の教育を主として表現に重きを置き、第二部は「写真科学」と「科学写真」の教育を主として技術に重きを置いた課程だった。
杉浦が当初から第二部が主とした工学的な視点で写真について学ぶことを希望していたのかは定かでないが、子供の頃からカメラという機械とそれを通じて撮像される写真に惹かれ、本学で写真についての知識や技能を習得したことが、後に世界初の胃カメラ開発につながったことは間違いないだろう。
1938(昭和13)年の卒業後は、顕微鏡やカメラ事業を主力としていた株式会社高千穂製作所(1942年に高千穂光学工業、1949年にオリンパス光学工業に改称)に入社する。顕微鏡の国産化を目指して1919(大正8)年に創業した高千穂製作所は、医療器械として使われる顕微鏡の開発の成功を元に1934(昭和9)年、カメラ製造に乗り出していた。ドイツのカールツァイス(Carl Zeiss)やエルンスト・ライツ(Ernst Leitz、現在のライカ、Leica )が祖業の顕微鏡事業から発展してカメラ事業で成功しており、高千穂製作所も写真用のレンズ設計など総合的な光学機器メーカーを指向していたのである。
入社して1年後、杉浦は軍務に召集された。男性としては小柄で強度の近視だったが、もともと機械や工学的な関心が強かった杉浦は、飛行機乗りになることを希望していた。1939(昭和14)年7月1日に入隊してすぐ、翌8月には静岡県浜松市の陸軍飛行場に配属になった。その後1941(昭和16)年8月の満州公主嶺(現在の中国東北部)への転属を経て、米国との開戦後の翌年1942(昭和17)年8月、青森県八戸にて軍務を解除された。
胃カメラ開発に生かされた写真の知識
召集解除後、高千穂製作所に戻った杉浦は位相差顕微鏡の製品化の研究に就くことになる。光の回折と干渉という2つの性質を利用して、無色透明な標本を明暗のコントラストにより可視化する位相差顕微鏡は、標本に染色する必要がないため生物細胞の観察や臨床検査などに多く用いられている。海外では1943(昭和18)年にカール・ツァイスと米国のボシュロム(Bausch & Lomb)が製品化に成功していた。
1949(昭和24)年8月31日、国内での製品化が待たれる中、主任技師として位相差顕微鏡の開発に忙しかった杉浦を、長野県の諏訪工場まで訪ねてきたのが東京大学附属病院の外科医の宇治達郎(うじたつお、1919-1980)*1だった。杉浦は東京の研究所から位相差顕微鏡の製品化の打ち合わせのため諏訪工場に来ていて、その杉浦を追ってわざわざ東京から宇治が会いに来たのである。
実は宇治は以前にも、胃の中を撮影する装置が開発できないかと杉浦に持ちかけていた。根っからの技術者であった杉浦は、胃カメラを使って胃がんや胃潰瘍を発見し、人の命を救いたいという宇治の熱意とまだ世界で誰も成し遂げていない胃カメラ開発のアイデアに心踊らせたが、目の前にある位相差顕微鏡の開発に忙殺されていたこともあり、宇治や胃カメラのことを頭の片隅にしまいこんでしまっていた。
わざわざ諏訪まで会いに来てくれた宇治の熱意に打たれた杉浦だが、その日のうちに東京に戻らなければならず、宇治を伴って夕刻の諏訪発新宿行きの列車に飛び乗った。その日は死者行方不明者160人、住宅の全半壊約1万7000戸以上という大きな被害を出したキティ台風が関東に上陸した日で、列車は途中で止まってしまい、二人は車中で一泊せざるを得なくなった。二人は夜どおし胃の中を撮影する話で大いに盛り上がり、杉浦は胃カメラを開発しようと心に決めたのだった。
とはいえ杉浦は会社から社運がかかった位相差顕微鏡の開発を急ぐように求められており、業務時間を胃カメラ開発に使うことはできなかった。それでも夜中に胃の中の明るさを想定した撮影実験を繰り返す中で、「よし、いける」と確信するに至る。年末には深海正治(ふかうみまさはる、1920-2021)*2が加わり、三人は自分たちの仕事を終えてから毎日のように杉浦の研究室で開発を続けたのである。
人間の咽頭と食道の平均的な口径は約14ミリ、口から管を入れて食道を通って胃にカメラを挿入し、胃の中を撮影するには胃カメラ本体の管の口径は12ミリが限界だ。自然と内径は8ミリ程度、先端にレンズとランプを付け、フィルムを収納する構造に行き着いた。
レンズは焦点距離5.06ミリの接写レンズ、ランプは直径5ミリの豆電球だった。フィルムは市販されている35ミリ・フィルムでは小さな本体に収納するには大きすぎるため、幅6ミリに切断して取り扱いをしやすくするためパトローネ入りにした。
カメラの基本構造にはシャッターもある。ただ、これだけ小型の構造にシャッターを組み込むのは現実的ではなかった。杉浦は、胃の中が真っ暗であり、ランプが光った瞬間にフィルムを感光させればよい、シャッターは不要だと思い至った。子供の頃からカメラや写真に慣れ親しみ、本学で写真工学を学んだ経験が生かされた瞬間だった。
ただ、感光度が低いフィルムに暗い小型レンズで撮影できるようにするためには、極小でも明るいランプが必須だ。当時は写真撮影にフラッシュバルブを一回ずつたいていた時代だ。連続して点灯する強力な極小ランプを製作してくれる町工場を訪ね歩き、杉浦らの要望に応える極小ランプが出来上がるのには長い時間がかかった。
こうして試行錯誤の末に世界初の胃カメラが完成する。1950(昭和25)年11月に開催された臨床医科外科学会で宇治が内視鏡診断の飛躍的な向上をもたらすことになる胃カメラを発表、オリンパス光学工業は宇治、杉浦、深海の連名で「腹腔内臓器撮影用写真機」の名称で特許を出願する。その特許によって同社は内視鏡で圧倒的なシェアを誇る医療機器企業に成長するのである。
生涯写真への興味を持ち続ける
胃カメラ発表から5年後の1955(昭和30)年5月、杉浦はオリンパス光学工業を退社して、長野県岡谷市にあった中堅カメラメーカーの岡谷光学機械に顧問として入社、その後岡谷光学機械でともに働いた仲間を誘って1958(昭和33)年12月、東京の世田谷区瀬田に杉浦研究所を設立した。
杉浦研究所は、光学機械のコンサルティングや委託研究などを主要業務に、光学機械の設計や試作を行った。胃カメラ開発以来の医学者との共同研究も続き、医学用の光学機器や周辺機材を次々と開発していった。
人付き合いの良かった杉浦は、本学卒業後も仕事やプライベートを通じて同級生と交流を続け、研究所の事業を進める上でも大いに助けられたそうだ。1977(昭和52)年の本学校名の変更に際しては、同窓会会報に卒業生の一人として想いを寄稿するなど、本学のことを常に気にかけていた。
瞬間の映像を切り取る「写真」という革新的な技術に魅了された杉浦の好奇心は、本学での学びを通じて知識と技術を磨き上げ、やがて世界初の胃カメラ発明として結実して、多くの患者の生命を救うことになるのである。
1986(昭和61)年8月26日 に68歳で亡くなるまで、杉浦の写真への興味が失われることはなかったという。
(文中敬称略)
註:
*1 宇治達郎
長野県生まれ。1943(昭和18)年、東京帝国大学医学部卒業後、軍医候補生として中国で従軍。復員後、東大附属病院分院外科副手に。当時、胃の検査はレントゲン写真を用いるのが主流だったが診断精度は低く、胃がんの5年生存率は約20%といわれ、宇治はがんを早期に発見できないかという思いを強くした。口から食道を通って胃に挿入する小型カメラの開発協力をオリンパス光学工業に勤めていた杉浦睦夫に持ちかけ、共同で胃カメラ開発に乗り出した。1952(昭和27)年、「腹腔内臓撮影用写真機を用いた診断法」についての学位論文で博士号を取得。東大退職後は1958(昭和33)年、医療法人宇治病院・理事長兼院長に就任。
*2 深海正治
久留米高等工業学校(福岡県)精密機械科を卒業後、帝国海軍の技術士官に採用されて終戦まで機銃や零戦の同調発射装置の設計を担当。終戦後、1948(昭和23)年オリンパス工学工業に入社。1949(昭和24)年、諏訪工場から杉浦睦夫の研究所に異動、胃カメラの開発に誘われる。後にオリンパス光学工業専務、オリンパス精機社長を務めた。2021年、101歳で死去。
参考文献
・時実象一「胃カメラを知っていますか」(http://ikamera.jp)
・『プロジェクトX 挑戦者たち1 執念の逆転劇』NHK出版、2000年
取材協力
・株式会社杉浦研究所(http://sugiken.com)
・杉浦静夫
・時実象一