東京工芸大学
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工芸ヒストリー14

写真印刷科を増設、メディアの可能性を広げる

写真を原点に3つの教育課程からなる体制へ

公開日:2022/8/5

 1950(昭和25)年、戦後に施行された新しい教育制度の中で、新制の大学として再出発をした東京写真短期大学では、主として写真材料や写真化学について学ぶ「写真工業科」と、撮影技術や表現を学ぶ「写真技術科」という、二つの教育課程を擁していた。それは写真を原点に、テクノロジーとアートの教育と研究を柱として、社会に貢献できる人材を輩出しようという本学の建学の精神を体現するものであり、現在の工学部と芸術学部からなる本学の教育課程につながる体制であった。

印刷技術の教育を強化

 近代社会において写真と印刷は密接に関わり合いながらメディアとしての可能性を発展させてきた。写真術の発明が印刷技術を革新的に進歩させたのと同時に、印刷技術の発達は、視覚情報を多くの人々へ伝える写真の力を飛躍的に高めた。印刷は、書籍や新聞、広告、紙幣など紙媒体に使われるのみならず、身の回りのあらゆる生活用品や、電子部品など様々な工業製品の製造過程でも用いられ、その応用範囲は極めて広範である。

 本学の創立の祖である六代杉浦六右衞門が、写真機材と石版印刷機材の商いから事業を拡大していったことはすでに記したとおりだが(第5話参照)、本学の初代校長の結城林蔵(第6話参照)は印刷製版術の権威であった。結城が自ら製版術について教鞭を執っていたように、本学は創立以来ずっと印刷についての教育にも力を入れてきた。

 東京写真短期大学の初代学長に就任した鎌田弥寿治もまた、印刷教育の重要性を唱えていた。開学の年の1950(昭和25)年11月には、多くの印刷関係者を招いて懇談会を催し、写真製版課程を開設することへの協力を求めている。

 当時、戦時中の資材不足や統制によりに絶息状態にあった出版業界にも、ようやく復興の兆しが見えはじめていたものの、出版物の印刷技術の水準は欧米に遠く及ばず、海外から輸入される洋書や洋雑誌の美しい印刷に、出版や印刷業界の関係者は、ただ溜め息を付くばかりであった。こうした状況から、高度な印刷技術の研究や、印刷技術者の養成を望む声が社会全体から高まっていた。

そこで本学では、写真工業科の中に、従来のカリキュラムを受け継ぐ「写真工業技術専攻課程」に加えて、印刷会社や印刷機器メーカーなどの協力を得て、新たに「写真製版技術専攻課程」を設置することにし、1953(昭和28)年3月に文部省から認可を受けた。
 それにより1953(昭和28)年4月から本学は、写真技術科(入学定員100名)と、写真工業技術専攻課程と写真製版技術専攻課程の二つの専攻課程からなる写真工業科(入学定員80名)という2科の体制になった。

 新たに設置された写真製版技術専攻課程の教育内容は盛りだくさんで、当時の学生によれば、入学時には「諸君はこれから特殊なことを勉強することになる。化学、物理、芸術の他、多岐にわたる専門的なことを学ばなければならない。本学は2年制であるが、学修する内容は4年制に匹敵する。気を抜かないで勉強するように」と担当教授から訓示があったそうだ。実際に月曜日から土曜日まで、時間割には目一杯授業が組み込まれていたようだ。

 その後、更なる学生数増加を見込んで「写真製版技術専攻課程」を独立させるため、1961(昭和36)年に新たな校舎を建設し、「写真印刷科」として設置することと、入学定員の増加を文部省に申請した。

「写真印刷科」設置のために新たに建設された東京写真短期大学中野校舎3号館、
1961(昭和36)年

 そして翌1962(昭和37)年4月、東京写真短期大学は、写真技術科(入学定員100名)、写真工業科(入学定員70名)、写真印刷科(入学定員70名)の3つの教育課程からなる体制となったのである。

4年制の東京写真大学の誕生へ

 戦後の日本の写真産業は、進駐軍兵士の写真熱が日本国民全体の写真ブームへと波及していた。それにともない、国産の感光材料の品質は著しく向上し、また国産のカメラも、簡易なカメラだけでなく、精密な工業製品として世界で通用するカメラを生産するようになっていた。放送業界においても、1953(昭和28)年にNHKと日本テレビがテレビ放送を開始するなど、写真や映像関連の産業はめざましく発展していた。

 そのような産業界の変化を背景に、写真を原点とするテクノロジーとアートを融合した本学の教育は、新しい高等教育を志向する若人の関心を呼び、唯一無二の教育機関としてさらに認知されていった。そして、急速に増加する社会のニーズに呼応するように、1966(昭和41)年、ついに4年制の東京写真大学が誕生するのである。

写真技術科の実習風景、昭和30年代後半
写真工業科の実習風景、昭和30年代後半
写真印刷科の実習風景、昭和30年代後半

皇太子殿下が本学を訪問

 この時代の本学のトピックを紹介しておこう。

 1953(昭和28)年3月2日、明仁親王皇太子殿下(現在の上皇さま)が来学された。同年6月2日に執り行われた英国のエリザベス女王の戴冠式に、皇太子殿下が天皇陛下の名代として列席するため、ポートレート写真の撮影が必要になったためである。本学のスタジオを使用したのは、当時の宮廷写真師であった熊谷辰男(くまがやたつお、1904-1966)が本学で講師を務めており、皇居内にまだスタジオが整備されていなかったためである。
 1956(昭和31)年3月には、弟宮の義宮正仁親王殿下(現在の常陸宮正仁親王)も来学され、写真撮影と研究施設を見学された。
 1959(昭和34)年には、世紀の祝典となった皇太子殿下と美智子様とのご成婚にあたって、その発表のためにお二人の写真が本学スタジオで撮影された。美智子様は同年1月、皇太子殿下は4月に来学され、大学の前の通り(現在の東京工芸大学通り)は、ご成婚を祝う多くの人々で埋め尽くされたという。
 1960(昭和35)年2月には、ご結婚を発表した清宮貴子内親王殿下(現在の島津貴子さん)も写真撮影のために来学されている。
 このように皇室から相次いで来臨があったことは、本学の写真研究機関としての社会的信頼を物語るエピソードと言えよう。

皇太子殿下ご来学、1953(昭和28)年3月2日
写真撮影と合わせて学内施設を見学された。
説明するのは創立時から本学で教鞭を執っていた江頭春樹教授(当時)

本学の奨学金制度の始まり

 1957(昭和32)年2月27日、小西六写真工業株式会社の相談役で、本学の評議員会議長であった杉浦仙之助(すぎうらせんのすけ、1877-1964、第7話 *3参照)が本学を訪れた。そして、鎌田学長と教職員を前に「私には子供がいないので、自分名義の株式の四分の一と預貯金を基金として、その利息を奨学金として学生に贈ろう。そして、それは私が世を去った後も続くようにしたいと思う」という話をされた。杉浦仙之助は創立以来、本学の発展に陰になり日向になり尽力してきた人物である。
 この基金は、「橘奨学金」という名称で奨学金制度として活用されることになった*1。これを機に現在まで、本学独自のものから公的なものも含め、給付型、貸与型など多くの経済的な学生支援制度を拡充してきている。

晩年の杉浦仙之助
写真提供:コニカミノルタ

註:

*1 橘奨学金は、授業料が年額7万円(実験実習費を含む)程度であった昭和30年代において、3万3000円を給付(返還義務なし)するものであった。現在ではコニカミノルタ科学技術振興財団研究奨励金として、学術の発展と文化の向上に寄与することを目的とした研究費の助成にかたちを変えて継承されている。杉浦仙之助は、写真業界及び社会事業に尽くした顕著な貢献により、1964(昭和39)年に正六位勲五等双光旭日章を受章した。



参考文献:
・『東京写真短期大学 入学案内』学校法人東京写真短期大学、1963年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『昭和写真小史』東京写真大学・同窓会 五十周年記念出版委員会編 、1977年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年

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