東京工芸大学
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工芸ヒストリー19

東京工芸大学に校名を変更

建学の精神と伝統を未来へと発展させる校名変更

 1977(昭和52)年、本学は現在の「東京工芸大学」へと校名を変更した。
 本学は1923(大正12)年に小西寫眞専門学校として創立されて以来、1926(大正15)年に東京写真専門学校へと改称し、1944(昭和19)年には戦時下の体制に対応すべく東京写真工業専門学校に改称した。終戦後の1950(昭和25)年には新しい教育制度の下で東京写真短期大学となり、1966年(昭和41)年には4年制の工学部の設置とともに東京写真大学へと改称した。
 本学の校名には常に「写真」という二文字が含まれていた。それは、テクノロジーとアートが融合した写真の教育と研究を原点とする本学のアイデンティティそのものだったと言えよう。
 前稿の「中野キャンパスに写大ギャラリーを開設」(第18話)でも述べたとおり、東京写真大学は当時「写大」という略称で知られていた(戦前の旧制専門学校時代は「写専」)。東大(東京大学)や京大(京都大学)のように地名を冠した大学は別として、「医大」や「音大」など、その教育内容から「○大」とくくられる大学は数多くあるが、「写大」と言えば本学が唯一無二の存在であり、その呼び名は本学の際立った特色と伝統を体現するものであった。
 ではなぜ、創立以来ずっと使われ続けてきた「写真」の二文字を捨て、現在の東京工芸大学へと校名を変更したのだろうか? そこには「工芸」という言葉が持つ真の意味と、先人たちが本学の建学の精神を見つめ直し、本学が未来に向けて更なる発展を遂げていくことへの願いが込められていたのである。
 本稿では、東京工芸大学への校名変更について、そこに立ち会った人々の熱い思いを振り返ってみたい。

校名変更の機運が高まる

 1966(昭和41)年に新設された工学部の設置認可に際して、文部省(現在の文部科学省)の大学設置審議会の委員から、「長い歴史のある学校であるため名称は東京写真大学のままで差し支えないが、工学部を発足させるのであれば、写真工学科と印刷工学科の2学科に、できるだけ早い機会に物理系学科を含めて学科増を行うことが望ましい」という意見があった。工学部という以上、写真や印刷に特化した学部ではなく、総合的な工学教育を目指すべきという提言であった。
 それに応えるかのように工学部は拡大を続け、1973(昭和48)年に工業化学科、1974(昭和49)年には建築学科が設置された(第15話参照)。これらの学科増設によって、「写真」という言葉の範囲には収まらない学問分野が含まれるようになったことから、「東京写真大学」という名称について検討を要することが、理事会や教授会の場で常々話題となっていた。
 これに対して理事長の春木榮(第15話参照)は、「本学の前身である東京写真専門学校以来の歴史と伝統、卒業生、短期大学部との関連もあり、(改称を)早急に決めることは困難」としながらも、将来においての改称を含め、今後とも校名について検討していきたいという考えを記した「大学の名称について」という手記を残している*1。

様々な検討を経て「東京工芸大学」が候補に

 1970(昭和45)年に山田幸五郎(第15話参照)から後を継いだ三代目学長の菊池眞一(きくちしんいち、1909-1997)*2は、校名変更について1974(昭和49)年10月の教授会で「工業化学科の卒業生を出す前の1975(昭和50)年度内に決定したい」との意向を表明した。

菊池眞一学長

 これを機に校名変更の議論は進んでいく。1975(昭和50)年1月の教授総会では文部省との折衝状況が報告された。菊池学長は、東京写真大学では写真撮影が主たる大学と一般に受け止められ、工学部が工業化学科と建築学科を擁する4学科となった現在では、名称として不適当になったと述べ、「東京工芸大学」に校名を変更することを提案した。

 菊池学長の考えは、写真の教育を原点とする本学のユニークな性格は、イメージに関する技術と芸術にあるとして、それを融合した一つの言葉として「工芸」を名称に付けるべきだというものだった。そのほかにも様々な名称が検討されたが、将来、短期大学部を芸術学部へと発展させることも視野に入れていたことから、「東京工芸大学」が最も適していると菊池は考えていた。

 1974(昭和49)年に春木榮から任を引き継いだ西村龍介(にしむらりょうすけ、1903-1989)*3理事長の下、学校法人の理事会でも校名変更についての議論が進められていた。

西村龍介理事長

 1975(昭和50)年4月23日の教授総会では、候補名である「東京工芸大学」の「東京」の冠称は支持されたものの、「工芸」が大学の現状に適応するかについては疑問が呈された。ただ、将来に向けて工学部が「Polytechnic」(工芸学校、総合技術専門学校の意)を広く包含するなら反対することはないという意見が大勢を占め、校名変更についての提案は了承された。
 しかし、1975(昭和50)年6月17日の理事会で、西村理事長が「学校の発展のため学校名を実体に則して変更することは賛成であるが、非常に大切な事項であるので、さらに慎重に検討したい」と述べ、全学での統一的な了承が浸透するまでの間、文部省への申請手続きは保留されることになった。
 一方で同日に審議された、工学部の印刷工学科の名称を画像工学科に、短期大学部の写真印刷科を画像技術科に改める件については異議なく承認された。これは、従来の印刷技術に加え、工学部では広く画像技術、短期大学部では印刷を応用するデザインの教育に力を入れるためだった。

学生から校名変更に反対や異論の声

 1975(昭和50)年6月25日、菊池学長は工学部体育館で全学生を対象とした説明会を開催し、理事会で進んでいる校名変更についての検討内容を明らかにした。東京写真大学という名称に慣れ親しんできた学生たちには動揺が見られ、特に校名変更の候補となっている東京工芸大学の「工芸」については異論が呈され、校名変更に反対する意見が出された。

 さらに同窓生に向けても校名変更の説明会が開催されたほか、1975(昭和50)年9月20日に創刊された『東京写真大学同窓会々報』では、西村理事長と菊池学長の連名による校名変更についての説明を掲載した。

 この同窓会々報には、校名変更に関わる重要な論考も掲載された。九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部)の元学長で、造形理論と造形史を専門とする小池新二(こいけしんじ、1901-1981)*4が特別寄稿し、「工芸」という言葉の持つ意味を説明している。
 その中で小池は、明治期に使われ始めた「工芸」という言葉は、その時代の最先端の優れた「技術と芸術」を包括しており、「工芸」という言葉の原点に戻って、人間的価値を目指して技術と芸術との新たな融合へと向かうべきであると述べている。

『東京写真大学同窓会々報』創刊号、1975(昭和50)年9月20日

東京工芸大学として新たな出発

 1976(昭和51)年の年初に学生の代表機関である学友会の執行部から、校名変更についての公開質問状が提起された。その内容は、校名変更の現状について、理事会や後援会、文部省の反応、変更の時期、学生の意見をどのように反映するか明らかにするよう求めるものだった。
 菊池学長は、学生からの公開質問に対して、校名変更の目的を丁寧に説明し、変更の時期は、1977(昭和52)年3月に工学部工業化学科の1期生の卒業に合わせることを目標とし、校名変更を主幹する学校法人理事会は教員、在学生、同窓生の意見を聞きながら最終決定するという内容を回答した。
 その後も大学側と学生、同窓会との議論が重ねられた。1976(昭和51)年5月18日に開催された同窓会評議委員会には、西村理事長、菊池学長、新井保男(あらいやすお、1904-1990)同窓会会長のほか、全国各支部の支部長と評議員が出席し、校名変更について賛否両論に分かれ4時間にわたって討議された。

 設置されてまだ間もない工学部の学生たちは徐々に校名変更に理解を示すようになっていたが、創立以来の写真教育の伝統を受け継いでいるという自負を持つ中野の短期大学部の学生たちの反対は根強かった。6月21日の短期大学部全学生を対象に菊池学長が行った説明会では多くの反対の声が上がり、「校名審議に学生代表を参加させるべきだ」という意見が多く、説明会終了後には会場の外で菊池学長らを学生たちが取り囲み、同日に開催される理事会で最終決議を行わないよう迫るなどした。

短期大学部学生への説明会後、菊池学長を取り囲む学生たち
1976(昭和51)年6月21日

 学生たちの反対は、長らく「写真大学」や「写大」の愛称で親しまれてきた、本学の写真教育の歴史と伝統への誇りと愛着から発せられたものであり、その名称から「写真」という文字が消えることを惜しむ熱い思いが学生たちを突き動かしていたのである。

大学の名称から「写真」の文字を消すことに反対した立て看板
1976(昭和51)年6月21日

 しかし、こうした校名変更に対する反対は、菊池学長らの真摯な対応と説明を通じて、徐々に沈静化していった。大学側は学生、同窓会との丁寧な議論を重ねた末、1976(昭和51)11月30日に開催された学校法人の理事会において、改めて校名変更について審議した。
 写真や画像技術はこれからも建学以来の骨子としながら、工学と芸術の融合を目指す新たな大学として生まれ変わり、将来の飛躍を期すという議案は、全会一致で可決された。

 その後、文部省に校名変更の申請が行われ、1977(昭和52)年1月26日の認可を経て、4月1日より法人名は学校法人東京工芸大学、大学名は東京工芸大学、短期大学は東京工芸大学短期大学部へと変更されたのである。現在に続く、東京工芸大学の始まりであった。

朝日新聞、1977(昭和52)年4月1日 朝刊
学校法人東京工芸大学の維持会員や役員として
多くの写真・印刷関連企業と個人が名を連ねている

 菊池学長は1977(昭和52)年4月に発行された同窓会々報に改めて「校名変更にあたって」という文章を寄稿し、「名前が変わるだけでは意味がなく、内容が変わらねばなりません」と述べ、工学部も短期大学部も、それぞれ工学と芸術を融合した特色ある教育を目指し、一層の質の向上と発展を誓うとともに、同窓生にも新しい東京工芸大学の教育を理解し、社会へアピールすることへの協力を求めた。

東京工芸大の校名プレート、厚木キャンパス

 長きにわたって校名変更について交わされた熱気のこもった議論を通じて、理事会や教授会、学生、同窓生らが改めて建学の精神を振り返り、本学の存在意義や目指すべき将来像をともに考えるきっかけとなったことは、本学にとってとても意義深いことだったと言えよう。

 本学が東京工芸大学として再出発してから既に半世紀近くの時が経つ。写真を原点としたテクノロジーとアートの融合を教育と研究の柱として、社会に貢献できる人材を輩出するという建学の精神は、その名に込められ、100周年を迎えたいまも変わらず受け継がれて日々具現化され続けているのである。

註:
*1
春木理事長の手記「大学の名称について」が記された時期は不明であるが、建築学科が設置(1974年4月)予定であることについて触れられていることから、在任期間中(1962年11月〜1974年12月)の1973(昭和48)年頃の可能性が高い。

*2 菊池眞一
1909(明治42)年、大阪に生まれる。父は、1919年(大正8年)に設立された、日本における写真用乾板の工業化に先鞭をつけた東洋乾板(大日本セルロイドの写真フィルム部門と合併し、現在の富士フイルム)の社長だった菊地恵次郎(きくちけいじろう、1875-1935)。1933(昭和8)年、東京帝国大学卒業後、仏パリ大学大学院へ留学。翌年に帰国し東京帝国大学大学院に入学。1936(昭和11)年、東京帝国大学講師に就任。1948(昭和23)年、工学博士の学位を授与され、東京大学教授に就任し、定年まで在職。1954(昭和29)年、日本写真学会会長、1967(昭和42)年、東京大学生産技術研究所所長などの要職を歴任し、東京大学定年後の1969(昭和44)年に東京写真大学工学部教授就任。1970(昭和45)年、東京写真大学と東京写真短期大学の学長に就任した(当時は設置上は2つの大学組織となっていたため)。1990(平成2)年より東京工芸大学名誉学長。1993(平成5)年に日本写真協会会長就任。長年にわたって写真科学の研究と技術者育成に尽力し、1981(昭和56)年には勲二等瑞宝章を受章した。1957(昭和32)年より1959(昭和34)まで、パリ大学都市日本館館長を務めるなど、日仏の交流にも貢献した。

*3 西村龍介
1903(明治36)年、山口県生まれ。1926(大正15)年、九州帝国大学工学部応用科学科卒業後、大阪工業試験所に入所、技官に任ぜられ、写真乾板の研究を行う。1932(昭和7)年、六桜社に招かれて入社し、リバーサルの白黒フィルム「16ミリさくらシネフィルム」の研究開発を行って1934(昭和9)年に発売。その後、多層式カラーの研究を行い、1940(昭和15)年11月に「さくら天然色フィルム」を発売した。これにより日本写真学会賞を受賞。1950(昭和25)年、日本写真学会の会長に就任。1968(昭和43)年、小西六写真工業の社長に就任、1973(昭和48)から1979(昭和54)まで同社会長。1973(昭和48)年には勲二等瑞宝章受章。1974(昭和49)年から1987(昭和62)年まで、東京写真大学および東京工芸大学の理事長を務めた。

*4 小池新二
1901(明治34)年、東京生まれ。1927(昭和2)年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同年の帝国美術学校創設に関わり、後に教授を務める。1950(昭和25)年に千葉大学教授に就任し、翌年同大工学部工業意匠学科創設に携わった。1954(昭和29)年には『世界の現代建築』、『世界の現代住宅』(共に彰国社)を出版し、日本建築学会賞を受賞する。1967(昭和42)年に千葉大学を退官し、九州芸術工科大学創設準備室長に就任。翌年九州芸術工科大学の初代学長となり1974(昭和49)年まで在職した。造形理論及び造形史を専門とし、特に工業意匠の分野で幅広く活動し、1972(昭和47)年には勲二等瑞宝章を受章した。

参考文献:
・『東京写真大学同窓会々報』創刊号〜第7号、東京写真大学同窓会、1975年〜1977年
・東京国立文化財研究所編『日本美術年鑑 昭和57年版』大蔵省印刷局、1984年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・亀井武『日本写真史への証言〈上巻〉』淡交社 (東京都写真美術館叢書)、1997年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・学校法人東京写真大学理事会資料

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