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工芸ヒストリー18

中野キャンパスに写大ギャラリーを開設

アートとして写真作品を収集・展示する先駆的な常設施設

 1975(昭和50)年に、本学の中野キャンパスに開設された「写大ギャラリー」は、国内外の優れた写真作品を収集、展示する常設施設として、教育機関としてのみならず、我が国の写真や美術の歴史を見ても、極めて先駆的な存在だといえる。本稿では、写大ギャラリーの開設までの経緯とその特色について紐解いていこう。

現在の写大ギャラリー展示会場
奈良原一高写真展「宇宙への郷愁」2021(令和3)年9月13日~11月20日

1975年に写真作品の収集と展示を開始

 いまでは東京国立近代美術館(東京都千代田区)や東京都写真美術館(東京都目黒区)など、写真作品を収集し、常設展示する美術館や写真専門の美術館は日本国内にも少なくない。写真は19世紀の発明直後から、調査や研究の記録資料として政府や研究機関などで公的に活用され、収集されてきた。
 欧米では20世紀になると写真作品が絵画や彫刻と同じようにアートとして美術館などの公的機関で収集、展示されることが一般的になっていった。米国では1920年代にボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston, マサチューセッツ州ボストン市)やメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art, ニューヨーク州ニューヨーク市)の版画部門において写真作品が収集されるようになり、1940年にはニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, ニューヨーク州ニューヨーク市)に正式に写真部門が設置され、1947年には写真専門美術館のジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館(現在のGeorge Eastman Museum, ニューヨーク州ロチェスター市、一般公開は1949年から)が設立された。
 しかし、日本で公的な美術館が写真作品の収集を始めるのは、1983 (昭和58)年に開館した土門拳記念館(山形県酒田市)のような個人記念館を除くと、1986(昭和61)年に地元企業である京セラから米国シカゴの写真収集家であるギルバート夫妻(Arnold Gilbert, 1921–2001 / Temmie Gilbert, 1923– 2015)が収集した写真作品1,050点の寄贈を受けた京都国立近代美術館(京都市左京区)や、1988(昭和63)年に専門の写真部門を設置して開館した川崎市市民ミュージアム(川崎市中原区)、1989(昭和63)年開館の横浜美術館(横浜市西区)、そして国内初の本格的な写真専門美術館として1990(平成2)年に第一次開館した東京都写真美術館など、いずれも1980年代後半以降のことである。

 このような国内の状況に先駆けて、1975(昭和50)年よりアートとして写真作品の収集と展示を開始した本学の写大ギャラリーは、写真の教育と研究をルーツとする教育機関として画期的な取り組みであったといえよう。
 現在では約1万2000点(2022年12月現在)の所蔵点数を誇る、国内では有数の写真作品のコレクションで、海外からも知られる存在となっている*1。

初代運営委員長を務めた細江英公

 写大ギャラリーを語るにあたっては、初代写大ギャラリー運営委員長(1975年〜2003年)であり、前稿(第17話)でも取り上げた細江英公(ほそええいこう、1933- )について述べる必要があるだろう。

 前稿(第17話)で紹介したとおり、1954(昭和29)年に東京写真短期大学という名称だった本学を卒業した細江は、1961(昭和36)年に発表した舞踏家の土方巽と仲間たちを被写体とした写真集『おとこと女』(カメラアート社)や、小説家の三島由紀夫を被写体として1963(昭和38)年に発表した写真集『薔薇刑』(集英社)など、肉体をモチーフとしたセンセーショナルな作品群で、若くして国際的に評価される写真家になっていた。
 1963(昭和38)年にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館で開催された「現代の写真’63」に作品「薔薇刑」を出品(第5話参照)したことを皮切りに、欧米の美術館やギャラリーで細江の写真展が数多く開催されるようになった。細江は、欧米では写真作品が絵画や彫刻と同じようにアートとして認知され、美術館などで収集されたり、アート市場で売買の対象になったりしていることを知る。

 そんな中、1968(昭和43)年に細江は、世界最大の写真コレクションを誇るジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館の所蔵作品による展覧会「ジョージ イーストマン ハウス コレクション展 世界の偉大な写真家たち」を企画し、日本への招致を成功させる。
 この展覧会は、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館の膨大な所蔵作品から選りすぐりの約300点で構成され、同年9月に東京・渋谷の西武百貨店で開催された後、名古屋、大阪、新潟にも巡回した。
 細江は「現代の写真’63」展への参加以降、同美術館をたびたび訪問していた。そこで見た歴史的な写真の名作の数々を、日本でもオリジナルで見せたいという強い希望があって同展は実現したのである。当時の日本光学工業(現在のニコン)の社長であり、1959(昭和34)年から1962(昭和37)年まで本学の理事長を務めた長岡正男(ながおかまさお、1897-1974)が資金援助を行い、日本写真家協会(同展開催時の会長は本学3期生の渡辺義雄)が主催し、ニッコールクラブ(日本光学工業製のカメラ・レンズ愛用者の親睦団体)が後援して同展は開催されるはこびとなった。写真の黎明期から当時最先端の写真表現までを、印刷物ではなく、オリジナルの写真作品で見せるという、日本国内で初めて開催された大規模な展覧会であった。同展の開催は写真史においても大きな意味を持ち、その後の日本における写真美術館設立運動にも多大な影響を与えた*2。

「ジョージ イーストマン ハウス コレクション展 世界の偉大な写真家たち」図録、
1968(昭和43)年

細江の本学着任に合わせて写大ギャラリー開設

 第一線で活躍する写真家であった細江が1975(昭和50)年4月、当時は東京写真大学短期大学部であった本学の教授として着任する。その一年ほど前に教授職就任の打診を受けた細江は、写真教育に携わる条件として、欧米の美術館などのように写真作品を収集、展示する写真専門のギャラリーを学内に設置することを提案した。大学側はこれを了承し、細江の教授着任と同時に写大ギャラリーが開設される運びとなったのである。
 1975(昭和50 )年当時、国内には一部の美術館やカメラ・フィルムメーカーの運営する展示会場、百貨店の催事場など、写真展を開催している会場は多くあった。また、写真家自身が監修して制作された、印刷物などの複製作品ではない、写真家の最終的な表現媒体としてのプリント、いわゆる「オリジナルプリント*3」の重要性を認識し、収集したり、売買したりしようという動きも日本の写真界に生まれていた。しかし前述のとおり、オリジナルの写真作品を収集し、常設展示する美術館の登場は、これより10年以上後のことである。
 欧米の美術館やギャラリーでの展覧会などを通して、アートとしての写真作品の価値を実体験として知っていた細江は、実践的な写真の教育と研究のために写真作品を日常的に見られる場として、いち早く本学においてギャラリー設置を実現したのだった。

 1975年5月20日「ウィン・バロック展」を柿落としに写大ギャラリーはスタートした。ウィン・バロック(Wynn Bullock, 1902-1975)は世界的に著名な米国の写真家で、1955(昭和30)年にニューヨーク近代美術館の開館25周年を記念して企画され、世界各地を巡回した写真展「人間家族」(The Family of Man, 第16話参照)の巻頭に展示された作品「そこに光りあれ」(Let There Be Light, 1954年)などで知られる。写大ギャラリーでの展覧会は、バロックの8×10インチという大判フィルムカメラで撮影された、緻密で美しいオリジナルプリント35点を展示した日本で初めての個展で、大きな話題を呼んだ。

写真展「ウィン・バロック」1975(昭和50)年5月20日~6月12日、案内状
写真展「ウィン・バロック」会場
写真展「ウィン・バロック」開会式で挨拶する細江英公

 以来、写大ギャラリーでは260回以上の写真展(2022年12月現在)を開催してきた。「ウィン・バロック展」のように海外の著名写真家による国内初となる本格的な個展や、国内外の歴史的に重要な写真家や最先端の写真表現に挑戦する若手・中堅の写真家の展覧会など、多くのユニークな写真展を開催してきた*4。会期中には写真家本人を招聘して授業を行ってもらったり、一般向けの講演会なども実施したりしている。

写真展「川田喜久治」1976(昭和51)年5月12日~6月10日
会場で学生にレクチャーする細江英公(左)と川田喜久治(右)

 開設当時、東京写真大学だった本学は「写大」の略称で呼ばれ、それがギャラリー名の由来となった。1977(昭和52)年に現在の東京工芸大学に改称された後も、永年親しまれてきた「写大」の呼び名を残して現在に至っている。

所蔵コレクションの特色

 写大ギャラリーの所蔵作品には、ダゲレオタイプ(Daguerréotype)やW.H.フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot , 1800-1877)によるカロタイプ(Calotype)のような19世紀の歴史的に重要な作品(第1話参照)をはじめ、エドワード・ウエストン(Edward Weston, 1886 - 1958)やウォーカー・エヴァンス(Walker Evans, 1903 -1975)など20世紀の世界的な巨匠の作品、渡辺義雄(わたなべよしお、1907-2000、第10話参照)や田沼武能(たぬまたけよし、1929-2022、第16話参照)など本学出身の日本を代表する写真家の作品など、数多くの著名写真家の名作が含まれる。とりわけ重要な所蔵作品は、森山大道(もりやまだいどう、1938- )と、土門拳(どもんけん、1909-1990)の2人のコレクションが挙げられよう。

日本を代表する写真家、森山大道コレクション

 日本を代表する写真家として1960年代より活躍する森山大道は、近年では国内はもとより、ニューヨーク、パリ、ロンドンなど海外の美術館でも大規模な写真展が開催され、世界各国で写真集が出版されるなど国際的に高く評価されている。
 森山は大阪から上京した直後の1961(昭和36)年より3年ほど細江英公の助手を務めていた。1976(昭和51)年10月、かつての師である細江の呼びかけにより写大ギャラリーで個展を開催することになった。写真展の準備にあたって、森山は自宅に保管してあったほとんどの作品のプリントを段ボール箱に詰めて写大ギャラリーに搬入した。写真展では、そのうち469点を選んでギャラリー内の壁面一杯に立体的に展示し、大胆かつ斬新な会場を構成した。

「森山大道冩眞展」1976(昭和51)年10月28日~11月20日、案内状
「森山大道冩眞展」会場

 この写真展の準備のために、写真家としてデビューする以前に撮影された1960年代初頭の作品から、1970年代にかけての森山初期の代表作となる「にっぽん劇場写真帖」や「写真よさようなら」などプリント900点を写大ギャラリーに運び込んだ。写真展終了後に、展示されなかった作品も含めて、それら全てのプリントを一括して写大ギャラリーで収集することにした。

 写真作品を収集する公的な美術館や、写真作品を売買するアート市場がなかった当時の日本の状況において、写真集や雑誌などの印刷原稿として制作された写真のプリントは、ともすれば処分されたり、散逸したりした可能性もあった。それから40年以上経った現在、森山の初期の作品群は、その時代の先鋭的な写真表現として注目され、世界中の写真研究者が興味を持ち、国内外の美術館での展覧会や写真集で取り上げられている。当時、大学としてそれらのプリントを一括して収集することを提案した細江に先見の明があったとしか言いようがない。

 森山の初期の作品群において、現存する発表当時のプリントは稀少で、国内外の美術館などでも、発表当時のプリントを所蔵している機関は少ない*5。写大ギャラリーが所蔵する森山作品900点は初期の代表作をほとんど網羅し、発表当時に制作されたプリントであり、森山という写真家を知る上で、世界的に見て極めて重要なコレクションである。
 近年では海外の美術館などからの作品貸出依頼も多く、例えば2015(平成27)年から2016(平成28)年にかけて米国のヒューストン美術館(The Museum of Fine Arts, Houston)、ニューヨーク大学(New York University)、ニューヨーク・ジャパン・ソサエティ(The Japan Society of New York)で開催された展覧会「For a New World to Come Experiments in Japanese Art and Photography, 1968-1979」や、2016(平成28)年から2017(平成29)年にかけて、オーストリアのアルベルティーナ(Albertina)、スイスのヴィンタートゥール写真美術館(Fotomuseum Winterthur)、フランスのル・バル(Le Bal)、米国のシカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)の4カ国の美術館で開催された展覧会「Provoke: Photography in Japan between Protest and Performance, 1960-1975」などにも、写大ギャラリーの所蔵作品が出品されている。

展覧会「For a New World to Come Experiments in Japanese Art and Photography, 1968-1979」図録、ヒューストン美術館、2016(平成28)年

 このように国内外から注目されるコレクションであることから、より多くの研究に資するため、所蔵する森山作品全点を掲載した写真集『森山大道写真集成⑤ 1960-1982 東京工芸大学 写大ギャラリーアーカイヴ』を2021(令和3)年に出版した。

写真集『森山大道写真集成⑤ 1960-1982 東京工芸大学 写大ギャラリーアーカイヴ』、
月曜社、2021(令和3)年

昭和の巨匠、土門拳コレクション

 写真家の土門拳(どもんけん、1909-1990)は、「古寺巡礼」や「文楽」などの日本の伝統美や文化に関わる作品、「風貌」など文化人のポートレート、そして「ヒロシマ」や「筑豊のこどもたち」に代表される社会的な問題に取り組んだ作品など、日本の写真史を語る上で欠かせない昭和の巨匠である。
 1978(昭和53)年、土門の厚意により、1200点以上の作品が写大ギャラリーに寄贈されることが決まった。プリントは全て新たに制作することになり、収蔵が完了するまでに5年の歳月がかかり、最初のお披露目のための写真展(「土門拳展」1978年5月26日~6月30日)が開催された。

写大ギャラリー写真展開会式での土門拳、1978(昭和53)年5月26日
写真展会期中の特別講義での土門拳(左)と細江英公(右)、1978(昭和53)

 しかし、プリントの制作期間中である1979(昭和54)年9月に、土門は脳血栓に倒れ、そのまま11年間意識が戻ることがないまま1990(平成2)年に80才で逝去した。
 写大ギャラリー所蔵のプリントは、約半数が土門自身の監修の下で制作され、残りは土門が意識を失った後に、土門の仕事を手伝い、プリントのトーンを熟知していた夫人(土門たみ、1917-2002、3代目土門拳記念館館長)と長女(池田真魚、いけだまお、1940-2022、本学36期生、4代目土門拳記念館館長)の監修の下で制作された。

 土門自身が監修したプリントについては、画面下部に土門本人の署名が入れられ、まだプリントに署名することが一般的ではなかった当時の日本において、作者自らの認証を残した貴重なプリントとなっている。

 写大ギャラリーでは、1978(昭和53)年の収蔵開始以来、ほぼ毎年のように土門の写真展を開催しながら、写真教育に活用し、珠玉の作品を多数寄贈してくれた土門の恩顧に応えるとともに偉業を後世に伝える活動を続けている。

写真展「古寺巡礼-土門拳が切り取った時間-」2022(令和4)年4月11日〜6月1日、案内状

コレクションの活用と拡充、管理

 写大ギャラリーの所蔵作品は、生きた教材として日常的に授業などで活用されているが、学外の研究者からのプリントスタディ*6も受け付けており、写真研究の拠点として機能してきた。
 近年では、国内外の美術館等における企画展への写大ギャラリー所蔵作品の貸出も多いが、本学独自の取り組みとして、毎年開催地を移動して実施される「全国高等学校総合文化祭」に所蔵作品を展示し、写真部門のある美術館や写真専門の美術館がない地域においても、高校生や一般市民が写真の名作をオリジナルで鑑賞できる機会を創出する活動も続けている。

第43回全国高等学校総合文化祭佐賀大会(2019さが総文) での写大ギャラリー所蔵作品展、嬉野市中央体育館、2019(令和元)年

 写大ギャラリーでは、毎年一定の予算を持ち、専門教員によって構成される運営委員会で検討しながら新規の作品収集を進めている。近年では作品寄贈の申し出も多く、コレクションはますます充実してきている。
 例えば、2020(令和2)年度の奈良原一高(ならはらいっこう、1931 - 2020)作品など、著名な写真家の代表作を網羅する多くの作品が寄贈されたことを受け、翌年には奈良原一高写真展「宇宙への郷愁」(2021年9月13日~11月20日)のような展覧会を開催し、写真家や関係者の厚意を社会に還元するようにしている。
 加えて、毎年実施される本学の学生と卒業生を対象とした若手育成のための写真コンテスト「フォックス・タルボット賞」(第6話*6参照)においては、入賞作品をコレクションに加えている。その中には2017(平成29)年に第36回土門拳賞を受賞した梁丞佑(ヤン・スンウー、1966- )や、2022(令和4)年に第46回木村伊兵衛写真賞を受賞した吉田志穂(よしだしほ、1992- )などの学生時代の作品も含まれている。

 貴重な所蔵作品は、年間を通じて気温20度、湿度50%を保つ、写真専用に設計された収蔵庫に保管され、収納箱や台紙なども写真の長期保存に適した材質のものを用いているほか、写真展開催中の展示室の空調や照明も適切にコントロールして、細心の注意を払って管理している。所蔵作品は全てデジタルアーカイブ化され、学内の図書館などで閲覧でき、常に教育と研究に役立てられる環境を整備している。

写大ギャラリー 第1作品収蔵庫内

創造的教育現場として

 1975(昭和50)年に中野キャンパス旧2号館1階に開設された写大ギャラリーは、1978(昭和53)年に建物の改修工事に伴い、同キャンパス旧本館の地下に移転し、2009(平成21)年には、中野キャンパスの全面リニューアルに合わせて現在の5号館(芸術情報館)2階に移転して運営されている。

 写大ギャラリーの開設に尽力した細江英公は次のように述べている。「写大ギャラリーが志向するものは何か、それは写真の創造的教育現場であり、教師も学生の区別なく、ともに写真を愛し、写真を学ぶ共通の広場にしたいということである」
 その志向は現在も受け継がれ、写大ギャラリーを起点に本学芸術学部の中野キャンパス全体がメディア芸術の拠点となり、教員と学生がともにそれぞれの専門領域を愛し、ともに学びの場を築き上げる「創造的教育現場」になっていることは言うまでもない。
(文中敬称略)

写大ギャラリーがある東京工芸大学中野キャンパス5号館(芸術情報館)

・写大ギャラリーWebサイト


*1 国内の写真作品を収集する主な美術館の所蔵作品点数は、東京都写真美術館3万6899点(映像資料や写真資料を含むため、国内外の写真作品のみは約3万点、2022年3月現在、公式ホームページより)、横浜美術館 4896点(2022年3月現在、公式データベースより)、東京国立近代美術館 3345点(2022年3月現在、公式データベースより)などで、写大ギャラリーの約1万2000点という所蔵作品数は教育機関としては多いと言える。

*2 1979(昭和54)年、写真家と評論家、研究者、教育関係者など52名によって「日本写真美術館設立促進委員会」が設立され、当時日本写真家協会の会長だった渡辺義雄が代表に就任した(第10話参照)。その前身は1978(昭和53)年に有志の写真家によって発足した「日本写真文化センター設立準備懇談会」で、細江英公は発足時からの委員であった。その後、長年にわたる国や行政機関など関係各方面への働きかけが実を結び、1980年代後半以降、川崎市市民ミュージアム、横浜美術館、東京都写真美術館、東京国立近代美術館など公立美術館の写真収集が開始されるようになった。1994(平成6年)年に同委員会は解散した。

*3 1970年代以降、写真家自身が監修して制作し、署名などを入れた作品としての写真のプリントを「オリジナルプリント」と呼ぶことが日本の写真界で広まった。写真集や雑誌などの印刷原稿のために作成されたプリントや、写真展などで一時的に展示するためだけに制作されたプリントなどとは異なり、絵画や彫刻などと同じように、写真家の最終的な表現媒体として長期的に保存されることを目的に制作されたプリントを指すことが多い。

*4 写大ギャラリー開設以来の展覧会の記録は写大ギャラリーWebサイトのアーカイブに掲載している。
  (http://www.shadai.t-kougei.ac.jp/pastexhibitions.html)

*5 写真作品は、その作品の撮影当時に制作されたプリントで、ある程度の年月を経たものを「ヴィンテージプリント」と呼ぶ。写真はネガなどの原板があれば、撮影から年月が経っても新たにプリントを制作できるが、美術館やアートの市場では、写真家の撮影当時の思想を最も強く反映する「ヴィンテージプリント」を重視する傾向がある。写大ギャラリーの所蔵する森山初期作品は希少な「ヴィンテージプリント」として評価されている。一方で、撮影から年月を経て、新たに制作されたものを「モダンプリント」と呼ぶ。

*6 教育や研究を目的として、写真作品プリントの実物を個別に閲覧することをプリントスタディという。国内の美術館などでも、事前申込みによるプリントスタディの制度を設けている施設も多い。

参考文献:
・『東京写真大学同窓会々報 第3集』東京写真大学同窓会、1976年
・『写真昭和小史』東京写真大学・同窓会 50周年記念出版委員会、1977年
・『写真150年・その光と影』日本大学芸術学部写真学科・東京工芸大学短期大学部、1989年
・『細江英公の写真 1950-2000』共同通信社、2000年
・東京都写真美術館叢書『日本の美術館と写真コレクション』松本徳彦、淡交社、2002年
・細江英公『ざっくばらんに話そう・私の写真観』窓社、2005年
・細江英公『なんでもやってみよう・私の写真史』窓社、2005年
・細江英公『球体写真二元論・私の写真哲学』窓社、2006年
・『創立80周年 東京工芸大学』学校法人東京工芸大学、2004年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・『写大ギャラリー40周年記念展冊子』写大ギャラリー運営委員会、2015年
・『東京工芸大学写大ギャラリー年報』写大ギャラリー運営委員会、1999年〜2022年
・『森山大道写真集成⑤ 1960-1982 東京工芸大学 写大ギャラリーアーカイヴ』月曜社、2021年

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