東京工芸大学
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工芸ヒストリー21

女子短期大学部の設置

国内初の秘書科を設置、海外留学など先駆的な教育を実践

公開日:2023/3/3

 大学院工学研究科の設置(第20話参照)とほぼ同時期に、本学は女子短期大学部の設置も模索していた。
 当時、工学部のキャンパスがあった厚木市やその周辺は、大手企業の工場や研究所が進出し発展が続いていた。ビジネスの国際化が進む中、女性の社会進出も進んでいたことから、企業の側も洗練された言葉遣いやマナー、教養を身につけ、実用的な英会話の素養などがある女性を多く採用するようになっていた。
 その頃、厚木キャンパスの工学部には1800人ほどの学生がいたが、女子学生は少なく、全学年でも70人ほどでしかなかった。一方で、短期大学進学者の80%は女子であり、女子の短大人気は高かったが、厚木市の周辺には実務教育を施す女子短大はなかった。こうしたことから、周辺の高等学校の進学指導教諭からも女子短大創設の強い希望が出ていた。
 そうした中、1980(昭和55)年6月13日に文部省が一橋講堂で行った説明会において、「1982(昭和57)年度から短期大学に秘書科の設置を認める」として、設置基準を明らかにした。当時は大学新設の審査は2カ年かけて実施されていたため、1982(昭和57)年4月に短期大学を設置するためには、1カ月半後の7月末が申請の提出締め切りになる。そこで厚木キャンパスの工学部内に開設準備委員会が発足し、女子短期大学部設置に向けて検討作業が始まったのである。

設置基準の開示から1ヵ月半で申請

 1980(昭和55)年7月に開催された理事会では、女子短大の設置構想について詳細が説明された。厚木キャンパスを中心にした地域社会において女子教育に貢献していくという高等教育機関としての意義や、短大の卒業生の就職先として東京や横浜などの企業も視野に入れることができるとの見込みから、女子短大を設置するという提案は理事会の賛成多数で承認可決された。
 文部省の説明会で短大秘書科の設置基準が示されてからわずか1カ月半ほどの短期間に、校地選定や校舎建設、予算編成や寄付行為変更の原案作成を法人本部が対応した。また、全く新しいカリキュラムのために、教員は既設の学部や学科との兼任ではなく、多くの人脈を頼りに探して新たな教員を確保した。膨大な量の申請書類は事務職員が夜を徹して作成し、申請の締切間際で本学の女子短期大学部設置が文部省に申請されたのである。

国内初の女子短大秘書科の誕生

 女子短大設置の申請は1982(昭和57)年1月に認可された。日本の大学・短期大学の中で初めて独立学科として設置認可を受けた、入学定員を150人とする東京工芸大学女子短期大学部秘書科が誕生したのである。

設置当時の東京工芸大学女子短期大学部の校舎、1982(昭和57)年

 4月6日には187名の一期生を迎えて入学式が挙行された。学長の菊池眞一(きくちしんいち、1909-1997、第19話参照)は新入生に向けて「多くの企業、公共機関、研究所等で求められている秘書業務に必要な基礎知識と実用的技術を教育し、近い将来立派な女子職業人として実社会で活躍できる人材を育て上げることを教育の第一の方針としております」と式辞を述べている。

女子短大第1回入学式で式辞を述べる菊池学長、1982(昭和57)年

 カリキュラムは当時盛んに言われていた「国際化」に対応できる学生の育成のため英語の科目に力を入れ、英米文の購読や英会話の授業も多かった。
 国際派の菊池学長の発案で、1986(昭和61)年7月末から8月にかけての3週間、米国ハワイのシャミナード大学(Chaminade University of Honolulu)で初めての海外語学研修も実施するなど、他の大学や短大に先駆けたカリキュラムも多く取り入れられた。特に海外語学研修は他の大学が実施していた学生個人が主体の短期留学とは異なり、大学主催のプログラムとして実施されていたため、複数の教員が引率をするなど全てにおいて細かい配慮がなされた。1986(昭和61)年に実施した第1回の参加者は4期生と5期生合わせて31人にもなった。
 こうした秘書科の教育内容が受験生や世間から評価されたことや、18歳人口の増加とともに志願者数は急増した。1986(昭和61)年には秘書実務コースと情報処理コースの2コース体制となり、定員は合わせて250名と大幅に増やされた。
 情報処理コースはビジネス情報処理とその周辺業務に即戦力として対応できる人材を育成するため、本格的な情報処理教育が行われた。プログラミング演習をBASICとCOBOLの2つの言語で実施し、システム設計や情報数学といった情報処理科目を設けるなど、近年話題となっている「数理・データサイエンス・AI教育プログラム」の先駆けとなるような学習を実践していた。また当時、企業において事務処理に導入が進んでいたオフィスコンピューターに慣れ親しむよう、小型の汎用コンピューターも利用できるようにした。

プログラミング演習などを実施した情報処理コースの授業風景

 こうして新設したコースからは多くの有能な人材が巣立っていき、情報処理コースの中には卒業後に情報専門職として就職し、システム開発を担当する学生もいた。

 女子短大で学んだ学生は当時を振り返り、厚木キャンパスは豊富な自然の中にあって学修環境としては最適と感じていたという。1990年代初頭の社会背景から、短大でビジネス実務を身に着け、即戦力として働く人材が多く求められており、学生同士が切磋琢磨する環境であった。
 秘書コースの学生は、秘書関連の実習が行われる日には特にきちんとした身だしなみが求められ、くだけた服装の学生などは注意されることもあったという。
 部活動も盛んでテニス部やチアリーディング部などが活発に活動を行っていた。また、学園祭「エリアント祭」は、学内でのコンサート開催など、学生が全員で作り上げるという活気にあふれていた。

女子短大は部活動も盛んでチアリーディング部などが活発に活動していた

コース全員が3カ月間の海外留学

 1989(平成元)年には秘書実務コースの1クラスが国際教養コースとして独立して設置された。このコースでは1年生全員が授業の後期となる9月から12月の3カ月間、米国テネシー州のハイワセカレッジ(Hiwassee College)というキリスト教系の短期大学に留学し、寮生活をしながら学んで所定の単位を取得するという特徴的なカリキュラムを実施した。
 留学先のハイワセカレッジは、それまでも個人の外国人留学生は受け入れていたが、スペイン語圏などからが中心で、アジアの日本から、しかも50人規模の学生が3カ月にわたって寮生活を行うのは初めてだった。

米ハイワセカレッジの学生を迎えるレセプションの式次第、1989(平成元)年

 学生はハイワセカレッジの寮で生活し、授業は週5日、朝9時から夕方4時半まで3クラスに分かれて本学指定の8科目を受講した。授業が終わると寮に戻ってキャンパス内で過ごし、週末は全員で観光やスポーツ観戦、コンサートなどの行事に参加するなどして、日本とは異なる米国の文化に触れ、充実した時間を過ごした。3カ月の留学が終わる頃になると、もっと長く滞在したいという学生が多くいた。
 帰国の際には飛行機の機上で、当時の担当教員が学生たちに対して「3カ月の留学期間中には素晴らしい出会いや羽目を外したこともあったと思います。日本に持ち帰らない方がよい思い出は、太平洋の上で捨てていってください」などと笑い話のようなアドバイスもあったという。
 日本の他の大学が実施していた留学制度は自由参加か短期間の語学留学がほとんどで、3カ月にわたってコース全員が留学して単位を取得できるという本学のプログラムは極めてまれだった。それだけに担当した教職員の苦労は並々ならぬものだったが、学生たちには非常に有意義な体験をすることができたのだった。
 プログラムの内容などについて取材を受けたり、他の多くの短大も関心を示したりして注目を集めたが、管理運営や学生の支援体制などの負担が大きく、当時は後に続く大学はほとんどなかったようだ。
 国際教養コースに在籍し、ハイワセカレッジへの留学を体験した学生は、のどかで美しいキャンパスの中で毎週末に行われた大学主催のイベントに参加し、楽しい時間を過ごしたと話す。当時日本では知名度の低かったハロウィンの仮装パーティに参加したり、現地でオペラや映画を見たり、カフェでの食事の仕方や近くのスーパーのウォルマート(Walmart)での買い物などでも、日本との文化の違いを感じたという。

ハイワセカレッジ留学プログラム、1994(平成6)年頃(ホームビデオより)

 留学を機に勉学にさらに熱を入れる学生も多く、英語をもっと学ぼうと考えたり、将来についてより深く考えたりする学生も増えた。国際教養コースという特性もあって当時から人気職種であった航空会社の客室乗務員として就職する学生も多かった。
 3カ月にわたって寮生活を送ったことで、今でも当時の同級生と交流を続けているような強い絆を築くことができた学生もいて、その後の人生を考える上でも大きな影響を与えたプログラムでもあった。
 このプログラムは1998(平成10)年まで続き、全期間を通して合計517名もの学生が貴重な留学体験をした。1999(平成11)年からは留学先をオーストラリアのメルボルンにあるスインバーン工科大学(Swinburne University of Technology)の英語語学センターに替え、留学期間を10週間にして実施するようになった。

 平成に入っても、女性の社会進出が増え続けたことと、秘書という業務の社会的な要請が高まった背景を受け、専門的な知識と技能を持った卒業生の評判は高く、求人件数も飛躍的に増えていった。
 高い教養と人間教育によって磨かれた本学の女子短期大学部の卒業生たちは、実社会で大いに活躍するようになっていったのである。

女子短大から巣立った学生たちは、さまざまな大企業に就職して活躍していたが、
芸術学部の拡充に合わせて2002(平成14)年度をもって学生募集を終えた

参考文献:
・東京都写真美術館叢書『日本写真史への証言』亀井武編、淡交社、1997年
・『東京工芸大学女子短期大学部創立二十周年誌』東京工芸大学女子短期大学部、2002年
・学校法人東京工芸大学理事会資料

取材協力:
・大内 伸子
・菅原 孝一
・松永 浩徳

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