東京工芸大学
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工芸ヒストリー22

芸術学部を開設

写真をルーツとした特色ある芸術学部3学科を設置

 昭和から平成へと元号が変わる頃、本学は工学部と短期大学部、女子短期大学部の3学部体制になっていた。その中で、中野を拠点に「写真技術科」「写真応用科」「画像技術科」の3科を有していた短期大学部は、大きな変革期を迎えようとしていた。

社会の変化の中で短大から4年制へ

 短期大学制度は、1949(昭和24)年6月の学校教育法の一部改正により1950(昭和25)年 4月に発足した。本学は戦後の復興期にあって、専門的な知識と技術を身に付けた即戦力となる人材を短期間で養成し、社会に輩出しようという狙いから、旧制の3年制の専門学校を2年制の東京写真短期大学に改編して、同年再出発した(第12話参照)。
 戦後の短期大学は、職業または生活に必要な知識と技能を育成することを目的として、従来の学問体系にこだわらない学科を設置するなど、時代や社会のニーズに対応しながら、高等教育を支える存在として重要な役割を果たしていた。
 一方で、1960年代にカメラやフィルムなどの写真産業が日本の重要な輸出産業へと急速に成長する中、写真工業に携わる高度な知識や技能を持つ人材の需要が増大したことを受け、1966(昭和41)年、本学は東京写真大学と改称して4年制の工学部を厚木に開学した(第15話参照)。そして、本学の創立以来の教育と研究の二つの柱はテクノロジーとアートであることから、工学部だけでなく、4年制の芸術学部を設置する必要性が、学内や同窓会などにおいて議論されるようになっていく。
 1977(昭和52)年、東京写真大学から東京工芸大学へと校名変更した際にも、当時の学長であった菊池眞一は、いずれ中野の短期大学部を芸術学部へと発展させることを視野に入れていた。(第19話参照)。
 1985(昭和60)年、理事会宛に本学同窓会の有志一同から「芸術学部(仮称)を設置することの趣意書」が提出された。そこには「写真技術・撮影およびその処理技術、いわゆるソフト面では短大があるのみで、4年制の工学部に対し、芸術学部の設置が待たれる」として、芸術学部の新設を積極的に推進することが求められていた。これを受け菊池学長は、教員一人ひとりから意見を聞くなどして、新しい芸術学部の在り方について思いを巡らせていた。

 1990年頃までは、4年制大学、短期大学ともに進学率は順調に伸びていた。しかし、日本社会の好景気を反映して4年制大学への進学志向は高まっており、また人口動態統計から、大学進学年齢となる18歳人口は1992(平成4)年度の205万人をピークに減り始めることは既に予測されていた。本学でも以前から大学の将来計画に関する検討委員会などが幾度となく開催されており、短期大学部を4年制の大学に改組転換するべきかといった検討が断続的に進められていた。同窓会から趣意書が提出された1985(昭和60)年頃には、すでに大学の在り方を検討する学内の委員会において、4年制の芸術学部を設置する必要性が菊池学長に答申されていたのである。

田中学長がリーダーシップを発揮

 1990(平成2)年10月に、20年の長きにわたる在任期間をもってその任を離れた菊池眞一の後を継ぎ、田中榮(たなかさかえ、1916-2008)*1が本学学長に就任した。
 田中学長は中野キャンパスに芸術学部を設置することに強い意欲を示し、学内の機運は一気に高まった。

田中榮学長

 芸術学部設置には教育環境に関する課題があった。中野キャンパスのある東京都中野区は大学設置の制限区域内にあり、新たな学部を開設して入学定員を増やすことはできなかった。一方で改組転換の場合には例外措置があり、短期大学部のある中野キャンパスと工学部のある厚木キャンパスの2校地体制にすれば、短期大学部の入学定員のまま新学部を設置することが可能だった。

 1992(平成4)年1月20日に開催された理事会では、芸術学部の設置に関する議案が上程された。その中で、短期大学部の教育課程を発展させて、1994(平成6)年4月に新学部として芸術学部を設置することが提案され、異議なく承認された。

 1994(平成6)年4月の開設に向けて、文部省(現在の文部科学省)に提出された認可申請書には、新たな芸術学部の設置について「東京工芸大学の短期大学部は、芸術系を指向した写真、印刷及びその関連分野の教育、研究を行ってきた。こうしたメディアとしての新しい芸術の潮流は、この専門分野における教育、研究の充実を必要とし、本学はそれに対応した産業分野から人材の育成を要請されている」という趣意が記された。
 そして1993(平成5)年12月21日、本学の原点である写真の教育と研究から発展した「写真学科」「映像学科」「デザイン学科」という3つの学科から成る、4年制の芸術学部の設置が文部省より認可されたのである。

他の美大とは一線を画す芸術学部

 1994(平成6)年4月1日に誕生した本学の芸術学部は、絵画や彫刻など、主に手業によるもの作りから出発した伝統的な美術を扱う他の一般的な美術系大学とは一線を画していた。写真をルーツとした、テクノロジーとアートを融合するメディア芸術の教育と研究に特化するという、新しい理念の下に走り出したのである。開設時の写真学科、映像学科、デザイン学科の3学科は、それ以前に短期大学部にあった、創立以来の写真教育の伝統を受け継いでいた写真技術科、カメラの技術を発展させた映像技術を教育していた写真応用科、印刷技術や画像技術とデザインの相関性を重視していた画像技術科の3科それぞれからの発展型であり、本学のルーツにつながる特色ある学科構成であったといえよう。3学科の入学定員は各80名で、合計240名の新学部であり、第1期生の入学式は当時新宿にあった安田生命ホールで挙行された。

 現在の芸術学部は中野キャンパスに一元化しているが、前述のとおり、開設当時の芸術学部は、自然豊かで広大な敷地を持つ厚木キャンパスと、メディアコンテンツ産業の集積地である都心に近い中野キャンパスの2つのキャンパスを教育研究の拠点としていた。1、2年次の厚木キャンパスでは基礎教育課程として幅広い教養と芸術的素地を養い、3、4年次の中野キャンパスでは専門教育課程として、メディア芸術の学理と実践的な教育を行い、4年間を通して本学が志向する総合的な知性と感性を育成するカリキュラムを策定した。とりわけ特徴的だった科目は厚木キャンパスでの「基礎造形実習」である。「基礎造形実習」は、写真・映像・デザイン3学科の学生全員に対して、それぞれの学科の壁をなくして全般的な知識と実技を修得する授業であり、メディア芸術全般に対する素養を磨くことを目的としていた。

 このような特色ある実践的な授業を実施するために、従来は工学部と女子短期大学部のキャンパスであった厚木キャンパスに、写真や映像の撮影スタジオやデッサン室など、最新の教育設備を完備した、5階建て延床面積5642㎡の芸術学部のための新棟も建設された。また厚木キャンパスでは部活動やサークル活動による工学部と芸術学部の学生たちの交流も自然に生まれ、学生同士のコミュニケーションを通じてテクノロジーとアートの融合を実践できるキャンパスでもあった。

芸術学部開設のために建設された新棟、
1994(平成6)年2月竣工(現在の厚木キャンパス本館)

 芸術学部の開設にあたっては、写真家や映像作家、デザイナーなど、各界の第一線で活躍するクリエイターや研究者が新たに教員として集められた。その中には、後に写真家として初めて文化勲章を受章する田沼武能(たぬまたけよし、1929- 2022、第16話参照)や、後に学長となる人気イラストレーターだった若尾真一郎(わかおしんいちろう、1942-2018)*2などがいた。

デザイン学科教授時代の若尾真一郎、1998(平成10)年頃

 21世紀になり、日本のメディア芸術は文化としても産業としても世界の注目を集める存在となった。そのような状況に先駆けて誕生した本学の芸術学部は、テクノロジーとアートの融合を推進する本学の建学の精神を体現する学部である同時に、最先端のメディア芸術の拠点として、その後も発展を続けていくのである。

有楽町の東京国際フォーラムで開催された写真学科・映像学科・デザイン学科3学科による卒業制作展、2000(平成12)年2月27日〜29日


*1
田中榮
1916(大正5)年生まれ。1939(昭和14)年、東北帝国大学(現在の東北大学)の理学部を卒業後、1941(昭和16)年に同大学の副手となり、1945(昭和20)年に助教授、1947(昭和22)年に東北大学へ改称にともない同大学の助教授、1954(昭和29)年に同大学の教授となる。1961(昭和36)年、電気通信大学の通信機械工学科に教授として着任。その後、同大学の附属図書館長、附属電気通信研究施設長を歴任した後、1982(昭和57)年から1988(昭和63)年まで同大学学長を務める。1988(昭和63)年に勲二等旭日重光章を受章。1990(平成 2 )年から1996(平成 8)年まで東京工芸大学学長を務めた。

*2
若尾真一郎
1942(昭和17)年山梨県甲府市生まれ。1967(昭和42)年に東京藝術大学美術学部工芸科を卒業。1969(昭和44)年に東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専門課程ビジュアルデザイン専攻修士課程修了。1975(昭和50)年、イタリアの第8回国際ユーモアアートビエンナーレで金賞受賞。1987(昭和62)年、日本グラフィック展年間作家賞受賞。1988(昭和63)年に東京イラストレータズ・ソサエティ設立に参加。1994(平成6)年に東京工芸大学教授に就任。2003(平成15)年より東京工芸大学芸術学部長。2008(平成20)年〜2016(平成28)年まで東京工芸大学学長を務めた。


参考文献:
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『東京工芸大学同窓会々報』第3集、東京写真大学同窓会、1976年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『創立80周年 東京工芸大学』学校法人東京工芸大学、2004年
・『東京工芸大学同窓会80周年沿革史』東京工芸大学同窓会、2007年
・文部科学省「大学進学者数等の将来推計」文部科学省高等教育局 2018年中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第13回)資料2
・厚生労働省「人口動態調査」


取材協力
・内藤明 東京工芸大学名誉教授

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