東京工芸大学
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工芸ヒストリー05

六代杉浦六右衞門

写真を産業として振興し、文化として普及・啓蒙

公開日:2021/11/5

 これまでのとおり、本学は日本で最初の写真専門の高等教育機関として1923(大正12)年に創立した。創立時の教育内容や教授陣については、後の記事に譲るとして、本稿では、創立の祖である六代杉浦六右衞門について触れておこう。

 六代杉浦六右衞門は、1847(弘化4)年8月4日に江戸小石川諏訪町の米商の家に生まれ、幼名を六三郎といった。1858(安政5)年、数えで12歳にして日本橋本町の薬種商富士屋弥助の元に見習い奉公に出た六三郎は、厳しい修業を経て、1865(慶応元)年、父の五代杉浦六右衞門が1857(安政6)年に屋号を譲り受けて麹町で営業していた薬種問屋小西屋六兵衛店の実家に戻る*1。

 1872(明治5)年、新橋と横浜間に鉄道が開通した。その年の10月、六三郎は旧幕臣の織田織之助*2という写真師に初めて肖像写真を撮ってもらい、そこに正確に写し出された自分の姿を見て、写真という文明の利器に将来への大きな啓示を受けた。

杉浦六三郎(後の六代杉浦六右衞門) 織田織之助撮影、1872(明治5)年10月
『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社社史編纂室編、1973年(昭和48)年より

 翌1873(明治6)年、当時「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれていた鉄道に乗り、横浜の外国人商館街に通うようになった六三郎は、イギリスの貿易商であるコッキング商会(Cocking & Co)の主人サムエル・コッキング(Samuel Cocking, 1845-1914)などの勧めもあり、石版印刷*3や写真の材料を扱うことになる。そして小西屋六兵衞店の店先に「石版および写真材料取扱所」という看板を掲げ、新たな商売に乗り出したのである。

 石版印刷と写真は、ともに幕末期に渡来した当時最先端の情報メディアである。かつて幕府の御用商人であった小西屋六兵衞店は、明治になっても内廷(宮内省)をはじめ新政府の諸官庁との取引を許されていた。その中には大蔵省紙幣寮や参謀本部測量局*4など、印刷や写真に関わる官営工場があり、そこに出入りしていた六三郎は、近代社会における印刷と写真の可能性について早くから気づいていたはずだ。

 1876(明治9)年、六三郎は六代杉浦六右衞門を襲名し、(父の五代は本名の甚兵衞に戻る)、麹町の店を実弟の金次郎に譲った。自らは当時の東京の中心街で、薬種商が多く集まっていた日本橋本町に新しい店を開業し、「西洋薬種、写真薬種、医科器械、化学器械、印刷石版問屋本店小西六右衞門」または「小西本店」と命名した。

明治10年代の小西本店
軒に掲げた看板には当時の主力商品である石版印刷が大きく記されている
『東京商工博覧絵 第二編上』深満池源次郎編、1885(明治18)年より

 開業当初の小西本店は、石版印刷機器や材料、インクなどが主力商品であった。江戸時代から庶民に人気のあった木版による錦絵に代わり、石版による絵(「額絵」と呼ばれた)が流行するなど、石版印刷は社会の様々な場面で利用され、石版印刷機器を一手に取り扱っていた小西本店の事業は急速に拡大していった。

 明治期には全国各地で営業写真館が続々と開業していたので、小西本店の写真器材の需要も年々拡大していた。1882(明治15)年頃には、石版印刷機、写真暗箱(カメラ)、写真台紙などを国内で製造するため、下請け工場を設けている。

 そして、レンズや乾板など外国製品の主たる仕入先であったコッキング商会が廃業したことにともない、1893(明治26)年には海外メーカーとの直接取引を開始する。ダルメイヤー(Dallmeyer、レンズ、英)、エルマジー(Hermagis、レンズ、仏)、イルフォード(Ilford、乾板、英)、マリオン(Marion、乾板、英)、カール・ツァイス(Carl Zeiss、レンズ、独)など、海外の第一級のメーカーと特約店もしくは代理店契約を次々と結んでいった。(続々と入荷する新製品を紹介するため、写真雑誌『写真月報』を創刊したことは以前の記事『3 小西寫眞専門学校の創立、建学の精神(前編)』のとおりである)
 1897(明治30)年には、イギリスから活動写真機一式(バクスター&レイ社製とされる)を日本で初めて輸入した。小西本店の浅野四郎(あさのしろう、1877-1955)がこの機材で撮影した「日本橋の馬車鉄道」は、日本人が撮影した最初の映画である。

 明治30年代、まだ国内での製造が軌道に乗っていなかった感光材料の輸入は相当な金額にのぼっており、国産化は国家的な事業であった。1902(明治35)年、六代杉浦六右衞門は、東京府下淀橋町十二社に六桜社(ろくおうしゃ)を開業し、印画紙や乾板など感光材料の開発に着手した。

 幕末から明治期に至る混乱のさなかに奉公人から身を起こした六代杉浦六右衞門は、目まぐるしく変化する社会の中で、写真という最先端のメディアの製造から全国的な販売網を誇る総合商社ともいえる組織を築き、大正期に入った頃には「写真王」とまで称されるようになっていた。

 1920(大正9)年4月26日、六代杉浦六右衞門はある人物の訪問を受ける。その人物とは、ロールフィルムを装填した誰にでも簡単に使える小型カメラシステムを発売し、写真の大衆化を一気に推し進めたアメリカの企業で、世界最大の写真企業に成長したイーストマン・コダック(Eastman Kodak Company)の創業者ジョージ・イーストマン(George Eastman、1854-1932)*5である。
 イーストマンはアメリカ経済連盟視察団の一員として来日し、当時日本で最大の取引先であった小西本店を表敬訪問したのである。六代杉浦六右衞門はこれを大いに喜び、店内をくまなく案内し、写場で固い握手をした。このときに撮影された写真は「日米写真王の会見」として知られている。

ジョージ・イーストマンと六代杉浦六右衞門 小野隆太郎撮影、1920(大正9)年
『写真月報』1920年5月号より

 六代杉浦六右衞門は、写真を産業として振興していく一方で、解説書や雑誌の出版、写真関係団体や文化事業への後援など、写真を文化として普及・啓蒙していくことにも力を入れていた。その活動の集大成として、社会の発展に貢献する人材の育成を目的とする教育機関の設立を理想としたのである。

 1921(大正10)年、自らの身体の衰えを感じるようになった六代杉浦六右衞門は、組織を合資会社にしてこれからの時代に対応するよう指示し、長男甚太郎に家督を譲って七代杉浦六右衞門を襲名させた。そして同年10月5日、日本橋亀島町の自宅で75年の生涯を閉じる。

 六代杉浦六右衞門の命日である10月5日は、現在では本学の創立記念日であり、その建学の精神を顧みる日としている。

註:

*1 1921(大正10)年に設立された「合資会社小西六本店」(現在のコニカミノルタ株式会社)などの社名の「小西六」は、「小西屋六兵衞店」の屋号が所以とされる。

*2 織田織之助(おだおりのすけ、1842-没年不詳)
江戸幕府の旗本に生まれる。幕末から明治にかけて写真や石版、油彩画など多彩な研究をしたことで知られる横山松三郎(よこやままつさぶろう、1838-1884)が上野池之端に開いた写真館を1876(明治9)年に受け継いだ。織田信真(おだのぶざね)とも称す。

*3 石版印刷
ボヘミア(現在のチェコ)生まれのアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder,1771-1834)によって18世紀末のドイツで発明された。石版の上で水と油が反発する性質を利用して印刷する、現在主流のオフセット印刷につながる最初の平板印刷術。石版は重くて取り扱いが不便なため、より簡便な金属板に置き換わり、現在では一般的な印刷では使われなくなった。芸術分野では、いまもリトグラフ(Lithograph)の名で版画技法の一つとして用いられる。

*4 大蔵省紙幣寮、参謀本部測量局
1871 (明治4)年に創設された大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)は、新政府の紙幣や郵便切手の印刷を任務とし、石版や銅版による印刷を行っていた。紙幣寮の初代頭(現在なら理事長)は渋沢栄一(しぶさわえいいち、1840-1931)。
1884(明治17)年に設置された参謀本部測量局は、現在の国土地理院の前身となる国家機関の一つ。国土の測量や地図の作成を担い、後に写真班として軍の演習や戦地、皇室の儀典などの記録撮影にも関わった。1888年(明治21年)より参謀本部陸地測量部。1945年(昭和20年)、終戦とともに廃止となり、内務省地理調査所が発足。

*5 ジョージ・イーストマン George Eastman 
アメリカ・ニューヨーク州ウォータービル生まれ。1881年に写真乾板製造会社を創業。その後ロールフィルムを発明し、1888年にコダック(Kodak)という名称の新しい写真システムで市場を開拓した。「あなたはシャッターを押すだけ、後は我々がやります」(You press the button, we do the rest)という宣伝コピーで売り出したカメラは、最初に100枚撮影できるロールフィルムが入っており、撮り終えた後、カメラごとコダック社に送ると、撮影した100枚の写真がプリントされ、新しいフィルムを装填したカメラとともに送り返されてくる。この簡便なシステムにより、写真を一般の人々に普及させた。またロールフィルムは映画の発明の基盤ともなった。
生前のイーストマンは慈善家としても知られ、ロチェスター工科大学(RIT)やマサチューセッツ工科大学(MIT)などの教育機関に多額の寄付を行っており、没後、自宅は世界最大級の写真コレクションを所蔵するジョージ・イーストマン博物館(George Eastman Museum)として公開されている。


参考文献
・『写真月報』小西本店、1897年10月号
・『写真月報』写真月報社、1920年5月号
・『日本の石版画』小野忠重、美術出版社、1967年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『江戸幕臣人名辞典』新人物往来社、1989年
・亀井武『日本写真史の落穂拾い』日本写真協会、1991年
・冨坂賢、柏木智雄、岡塚章子『通天楼日記』思文閣出版、2014年
・『日本印刷文化史』印刷博物館、2020年

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