創立に集った教育者たち(後編)
技術と表現の両道に精通した多彩な人材
公開日:2022/1/5
小西寫眞専門学校の創立にあたって、東京美術学校臨時写真科から移ってきたのは結城林蔵だけではない。理事長となった加藤精一や、写真師の前川謙三(まえかわけんぞう、1873-1946)、宮内幸太郎(みやうちこうたろう、1872-1939)らもいた。写真化学や印刷製版の専任教員が主だった東京美術学校において、加藤は「写真光学」を、前川や宮内ら写真師たちは撮影や印画など写真の実技の授業を担当していた。
東京美術学校への写真科設置について、文部省が財政面を理由に難色を示していたことに対して、彼らは写真業界からの支援(第2話*3参照)として無報酬で外部講師*1を務めていたのである。そして1923(大正12)年の小西寫眞専門学校創立に合わせて理事就任し、専門教育においての教鞭を執るようになる。
第一線の写真研究者と写真師が教壇に立つ
このような小西寫眞専門学校の創立時の教育者たちの顔ぶれには、いくつかの流れがあることがわかる。一つは、加藤精一や秋山轍輔のように、当時の写真界の先導的なメディアであった写真雑誌『写真月報』(第3話参照)の編集に携わっていた写真研究者。
もう一つは小野隆太郎(おのりゅうたろう、1885-1965)や前川謙三、宮内幸太郎のような業界を代表する写真師たち。これらのメンバーは、当時の芸術写真の潮流を牽引していた東京写真研究会(第3話参照)の活動を通してつながっていた。
そこに、江頭春樹(えがしらはるき、1883-1961)、杉浦誠次郎(すぎうらせいじろう、1885-1955)、長岡菊三郎(ながおかきくさぶろう、1882-1939)など、六桜社(第5話参照)において、国内最先端の写真材料の研究・開発に携わっていた技術者たちが加わり、表現と技術という小西寫眞専門学校の教育の両輪が動き出したのである。
東京写真研究会と写真師たち
小西寫眞専門学校の創立と同時に教授に就任した加藤精一と秋山轍輔は、ともに『写真月報』(第3話参照)の黄金期を支えた編集・執筆者であり、同時に東京写真研究会の主要メンバーであった。
加藤精一は1882(明治15)年に埼玉県で生まれ、東京高等商業学校(現在の一橋大学)に在籍していた頃から 小西本店に出入りし、『写真月報』の編集に関わっていた。秋山轍輔(旧姓は久野)は、1880(明治13)年に長野県松本に生まれ、東京高等商業学校に入学したが、病気のために中退。その後、同窓の加藤の紹介で1904(明治37)年8月に小西本店に入り『写真月報』の編集に加わる。二人は『写真月報』誌上で、写真技術や芸術写真についての解説や論考を数多く発表し、また多くの写真解説書を執筆するなど、当時の写真界のオピニオンリーダーといえる存在だった。
加藤は東京美術学校に引き続き小西寫眞専門学校でも「写真光学」の授業を担当し、秋山は「写真学通論」を担当した。当時の学生によれば、加藤の「写真光学」は非常に高度で難解な内容であったという。また温厚な人物であったという秋山は、編集主幹を務めていた『写真月報』誌上で、優れた学生の作品を紹介していた。3期生で、後に写真家として初の文化功労者に選出(1990年)される渡辺義雄(わたなべよしお、1907-2000)も、在学中に秋山によって『写真月報』に作品が掲載された一人だった*2。
1904(明治37)年、加藤と秋山は芸術としての写真を確立するための研究会「ゆふつゞ社」を結成し、1907(明治40)年には、さらに強力な写真啓蒙団体を目指して東京写真研究会の活動を開始したことは第3話に記したとおりである。東京写真研究会では秋山が主幹となり、創設時の賛助会員に六代杉浦六右衞門や杉浦仙之助*3、前川謙三らが名を連ねていた。また後年は、小野隆太郎や宮内幸太郎も活動に加わった。
このように東京写真研究会に参画していた写真師たちは、プロフェッショナルとして高いレベルの撮影技術を持ちながら、表現者としても優れた活動をしていた。
小西寫眞専門学校の創立にあたって、教授として「採光」(撮影のライティング技術)の授業を担当した小野隆太郎は、1885(明治18)東京に生まれ、少年の頃から写真館江木本店に奉公し写真術を身に付けた。
小野は、1910(明治43)年に東京写真研究会の主催する「第一回研展」に入選し、その名を知られるようになる。ポートレイト、静物、ヌードなど、ゴム印画法やカーブロ印画法*4などを用いた絵画的な作品を数多く発表し、その後、同会の審査員も務めた。
1919(大正8)年1月には東京赤坂見附で写真館を開業した。関東大震災で写真館が倒壊したため、以降は写真師としてではなく、本学において教育者として後進の育成に尽力し、晩年には小西六写真工業株式会社の顧問も務めている。
小野は厳格な指導者として学生たちに知られていた。ある日の授業のこと、ポートレイトの撮影実習に派遣されてきたモデルが、裸婦デッサンの授業と同じだと勘違いして、自ら裸になって写場(撮影スタジオ)に入ってきたことがあった。本来は着衣の撮影実習のはずであったが、学生たちは黙って撮影を始めたという。当時、最新の設備が整っていた写場では、大きな採光窓からの光量を調整するため長い竹の棒を使って遮光幕を上下していた。学生たちがすでに撮影を始めているところに現れた小野は「だれが裸にしたんだ!」とカンカンに怒って、その長い竹の棒で学生たちを追い回したという。今では考えられないようなエピソードだ。
講師として「修整」の授業を担当した前川謙三は、福井県出身で1888(明治21)年に東京麹町の丸木利陽(まるきりよう、1854-1923)の写真館に入門し写真術を学んだ。
1898(明治31)年に渡米し、サンフランシスコの写真館で修業した後、セントルイスの写真専門学校に入学し、最新の採光法や印画法を学んでいる。その後も北米各都市の写真館で研鑽を積み、1902(明治35)年に帰国し、丸木写真館館主代理となる。
1907(明治40)年、六桜社写真部の技師となり、同年、加藤精一、秋山轍輔らと東京写真研究会の活動を開始するが、1909(明治42)年には六桜社を退社し、横浜市山下町に写真館を開業した。その後、市内の弁天通に移転。1923(大正12)年の関東大震災直後には、横浜市からの要請を受け市内の被災状況の記録撮影を行ったことでも知られている。
同じく講師として「印画」の授業を担当した宮内幸太郎は、千葉県出身で、伯父で高名な写真師である中島待乳(なかじままつち、本名は精一、1850-1938)に写真を学び、1889(明治32)年に本郷区天神町 (現在の東京都文京区湯島)に「宮内幸太郎写真場」を開業する。1901(明治34)年に東洋写真会という写真家団体を設立。1907(明治40)年の東京勧業博覧会や1909(明治42)年の東京美術工芸展でも作品を発表するなど、明治・大正期を代表する写真師である。東京写真師組合副組長、日本美術協会審査主任などを歴任し、1911(明治44)年には東京写真研究会審査員となっている。
ちなみに、昭和を代表する写真家である土門拳(どもんけん、1909-1990)は遠縁にあたり、宮内の内弟子として写真の基礎を学んでいる。
当時の学生の証言によれば、いつも前川はモーニング、宮内はフロックコート着用という正装で授業をしていたという。おそらくそれが前川や宮内が写真館で仕事をする時のスタイルであり、当時の一流写真館の格式と気概をうかがい知ることができるエピソードといえよう。
創立時の小西寫眞専門学校において、写真の表現や実技に関わる教育に携わっていたのは、当時の写真界において指導的な立場にあった実力者たちばかりであった。
六桜社の技師たち
一方で、写真化学や技術的な教育は、六桜社の技術者たちがその役割を担っていた。
六桜社については第5話でも記したとおり、石版印刷機やカメラの国産化に成功した小西本店が、乾板や印画紙など感光材料の国産化を目指して1902(明治35)年に開業した。
六桜社の開業当時、乾板の開発にはフランス人技師のジョルジュ・スゾール(生没年等不詳)と、印画紙の開発には独ベルリン大学(現在のフンボルト大学ベルリン、Humboldt Universität zu Berlin)でドクトルの学位を取得し、米独の研究機関で研究員を務めて帰国した生田益雄(いくたますお、1864-1910)の二人を雇い、研究に着手した。後に小西寫眞専門学校で教鞭を執る江頭春樹と長岡菊三郎は、ともに生田益雄の助手として六桜社に入社している。
江頭は、東京高等工業学校卒業後、1902(明治35)年に六桜社に入社。生田とともに印画紙の開発に携わった。小西寫眞専門学校の創立時には講師(後に教授)として「材料・薬品」の授業を担当した。江頭は、1926 (大正15) 年の東京写真学会(1933年に改称し現在の日本写真学会)設立に尽力するなど、長年にわたって日本における写真化学の発展に貢献した人物である。1954(昭和29)年の第4回「写真の日」には、その功績を讃えられ功労賞を受賞している。
1907(明治40)年にスゾールが乾板を完成できぬまま帰国したため、印画紙だけでなく、乾板の開発も手がけることになった生田の助手として、長岡は東京帝国大学工科大学卒業後の1908(明治41)年、六桜社に入社した。
しかし、なかなか外国製にかなう性能の乾板を製造できるめどが立たず乾板研究室が解散することになり、1909(明治42)年に退社して清王朝末期の中国南京へ師範学校の教授として赴任する。その後帰国し慶応義塾大学医学部予科で教鞭を執っていたが、1922(大正11)年に六桜社に戻り、1929(昭和4)年に発売された国産初のロールフィルム「さくらフィルム」の開発などに貢献した。小西寫眞専門学校では「化学」の授業を担当する。
東京帝国大学工科大学を卒業して、1907(明治42年)に六桜社に入社した杉浦誠次郎は、茨城県石岡に生まれ、旧姓は一色といった。1910(明治43)年に六代杉浦六右衞門の養子となり杉浦姓となる。六桜社では工場長として印刷用インキの国産化を成し遂げ、印刷業界から大いに歓迎される。小西寫眞専門学校では「光化学」の授業を担当した。
六桜社の技術者と教員を兼任していた江頭、長岡、杉浦らは、当時近くにあった六桜社(東京府下淀橋町十二社、現在の新宿区西新宿)から授業に通っていたという。
このように、創立時の小西寫眞専門学校では、当時の芸術写真を牽引していた写真研究者や写真師らが主に表現面の教育を担い、そして六桜社で最先端の感光材料などの研究・開発に関わっていた研究者たちが技術面の教育を担っていたのである。そして、結城校長をはじめとする創立時の多くの教育者たちが、技術と表現の両道に精通していたことは間違いない。
初代校長の結城林蔵は就任にあたって「小西寫眞専門学校では、学理及び技術に通じたゼントルマンを養成する校風を作りたい」と語っていたが、これは、理論と技術を身に付けた即戦力として社会で活躍できる人材を育成することのみならず、教育において人格形成にも重きを置いていたことを意味している。それはテクノロジーとアートの融合を推進し、常に知識・教養・人格の向上に努め、社会の発展に貢献できる人材を育成しようとする現在の本学の教育理念へと継承されている。
註:
*1 東京美術学校臨時写真科に写真業界からの支援として教鞭を執っていたのは、加藤精一、前川謙三、宮内幸太郎の他に、写真師の江崎清(えざききよし、1877-1957)を加えた4人である。
*2 渡辺義雄の作品が初めて印刷物に掲載されたのは、1927(昭和2)年『写真月報』6月号の「少女像」である。
*3 杉浦仙之助(すぎうらせんのすけ、1877-1964)
東京府豊多摩群柏木村生まれ。旧姓は牧原、実家は牧原木綿店という。1892(明治25)年 高等小学校卒業後、横浜の親戚の生糸仲買人である渋沢作二郎商店入店。1897(明治30)年、同店を退店し、翌年に小西本店入店。1903(明治36)年に六代杉浦六右衞門の長女と結婚し杉浦姓となる。以降、小西本店の事業全般に優れた采配を振るった。小西寫眞専門学校の創立時には監事となる。
創立時の他の監事は、杉浦宗次郎(すぎうらそうじろう、1880-1953、旧姓は仲氏、六代杉浦六右衞門の娘婿)、渡辺由三郎(わたなべよしさぶろう、1894-1945、六代杉浦六右衞門の実子だが渡辺家の養子となり改姓)など、いずれも杉浦一族からである。(第4話参照)
*4 ゴム印画法 Gum Bichromate Print Process、カーブロ印画法 Carbro Transfer Print Process
ゴム印画法とカーブロ印画法は、ともに顔料を用いたピグメント印画法の一種で、絵画的な写真表現に適した印画法とされる。
ゴム印画法は、アラビアゴムと顔料、重クロム酸カリを混合した感光液を水に強い紙に塗布し、ネガを密着させて露光する。光が当たった部分が硬化するため、冷水で光が当たらなかった部分を洗い流すとポジ画像が現れる。一回では薄い画像しか得られないため、乾燥後に同じ工程を繰り返すことによって、高い濃度の画像を得ることができる。主に水彩用紙を用いるため鮮鋭な画像は得にくいが、硬化したアラビアゴムの画像はさほど強くないことから、水の中で画像の濃淡を部分的に調整できる。
カーブロ印画法は、画像を焼き付けた通常の印画紙(ゼラチン・シルバー・プリントGelatin Silver Print)と、重クロム酸カリ、赤血塩、臭化カリの混合液に浸したカーボン・ティッシュ(カーボン顔料をゼラチンに溶き、紙に厚く塗ったもの)を密着させると、化学反応によって印画紙の黒い画像部分に接したカーボン・ティッシュが階調に応じて硬化する。温湯に浸すと硬化しなかった部分のカーボン顔料が溶出するので、残った画像部分を紙などの支持体に転写する印画法。
参考文献
・『日本写真界の物故功労者顕彰録』日本写真協会、1952年
・『写真とともに百年』小西六写真工業株式会社、1973年
・『創立五十年を顧みて』学校法人東京写真大学、1973年
・『日本写真史年表』日本写真家協会編、1976年
・『東京工芸大学六十年史』学校法人東京工芸大学、1985年
・『芸術写真の精華』東京都写真美術館、2011年
・「都市づくり100年 前橋アラカルト 長岡菊三郎」前橋市役所『広報まえばしNo.951』、1991年
・『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ編、2004年
・「横浜現代史人物伝②写真家・前川謙三」横浜市史資料室編『横浜市史通信16』、2013年